六手のピアノのための「ロマンス」

2006年9月 9日

ラフマニノフは1891年、六手のピアノのために「ロマンス」という作品を作曲している。コンサートピースというより家庭で楽しむための作品であり、若い時の習作の域を出ないものであるため今日あまり顧みられることのない曲である。しかしこの曲はラフマニノフの音楽を理解する上で極めて重要な作品なのである。ここではあまり知られていないこの愛らしいピアノ曲について解説してみたいと思う。


ラフマニノフ家は元々は大地主貴族であったが、作曲家セルゲイ・ヴァシーリエヴィチが生まれた頃にはかなり没落しており、彼の幼少時にはついに破産して両親が別居するという事態に見舞われた。そんな時に困窮する彼を親身になって助けたのが父方の伯母の嫁ぎ先であるサーチン家の人々であった。後に交響曲第1番初演の失敗により彼が作曲の意欲を失ってしまった時、ダーリ博士の診療を受けることをすすめたのもサーチン家と懇意の医師である。

1890年17才の夏に彼は初めてサーチン家の人々と共にこの家の所領イワノフカを訪れ、楽しい一時を過ごした。以来毎年の夏をここで過ごすのは彼の習慣となった。この時一夏を一緒に過ごしたのがサーチン家の親類にあたるスカローン家の人々だった。彼はこの家の三姉妹と親しくなり、長姉ナターリヤの作曲したワルツの主題を元にした「ワルツ」、翌年には「ロマンス」という六手のピアノのための小品を作曲している。三姉妹のためなので、六手ピアノという特殊な編成になっている。特に末妹のヴェーラとの間には淡い恋愛感情が芽生えたといわれている。(時々CDのライナーなどで三姉妹の長姉ナターリヤ・スカローンと、後に彼の妻となるサーチン家の長女ナターリヤ・サーチナを混同した記述を見かけるが惑わされないように。スカローン次姉はリュドミーラという。)


「ロマンス」はアルペジオ(分散和音)による序奏にはじまり、主部では若き作曲家の令嬢達への優しい眼差しが感じられるロマンティックな主題がソプラノで歌われ、最後もやはり名残りを惜しむようにノスタルジックな感傷に満ちたコーダで締めくくられる。若き日の小品とはいえラフマニノフならではのロマンティシズムに満ちた逸品である。

この小品が彼の音楽を理解する上で重要な理由は一聴すればおわかりいただけると思う。この冒頭のアルペジオは後に彼の最高傑作であるピアノ協奏曲第2番の第2楽章で用いられているのだ。


よく知られているように、ラフマニノフは野心作である1897年に行われた交響曲第1番の初演が失敗に終わったことにより神経衰弱に陥り、創作意欲を失ってしまっていた。そしてこの時期には初恋の人であるヴェーラ・スカローンが別の男性に嫁いでいくという出来事にも見舞われていた。失意の作曲家を支えたのは催眠療法を採り入れていた精神科医ニコライ・ダーリであった。ダーリはアマチュアの音楽家でもあり、音楽への造詣も深いことから博士の診療は大いに作曲家を勇気づけることとなり、創作意欲を回復した彼は新しいピアノ協奏曲の創作に取り組み始めたのである。

このピアノ協奏曲第2番は第1楽章が最後に作曲されたことが知られている。はじめに第2楽章と第3楽章が作曲され、全曲の完成前に二つの楽章が1900年12月2日モスクワ交響楽の夕べで演奏されている。

第2楽章はオーケストラによるやや神秘的な導入部を経て調性をハ短調からホ長調へと移した後、ピアノがアルペジオを奏してはじめられるのだが、このアルペジオは六手のピアノのための「ロマンス」の冒頭から採られているのだ。したがって一見したところ初期の習作にしか見えない「ロマンス」ではあるが、この記念碑的な協奏曲を構想する上での最初の着想を与えたのがこの作品であったとも考えられるのである。

「ロマンス」ではアルペジオは単なる序奏で主部は序奏とはかかわりなく進められていくのだが、この楽章ではアルペジオがそのまま続きそれに乗せてフルートとクラリネットが主題を歌い継いでいく。この主題はラフマニノフが残した数多くの美しい旋律の中でも最も優れたものの一つだが、こうした経緯を考えると旋律にアルペジオがつけられたのではなく、アルペジオに合わせて旋律がつくられたのではないかと考えられる。このあたりの事情はグノーの「アヴェ・マリア」と少し似ているような気がする。


ダーリ博士の助力を得ながら協奏曲の構想を練っている時、ラフマニノフの胸のうちにあったのはおそらくスカローン三姉妹と過ごしたイワノフカの夏の思い出だったのだろう。そしてこの曲が私達を甘い感傷に誘うのは彼の初恋への追憶が込められているからではないかと思われる。『逢びき(原題“Brief Encounter”)』をはじめとする恋愛映画に頻繁に用いられてきたのもこうした理由によるのだろう。

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コメント

セルゲイさんこんにちは。私は友達が出演するピアノデュオコンサートを観に行って以来、ラフマニノフが大好きになりました。特にそのコンサートで聴いた「二台のピアノ、四手のための組曲第二番 第三楽章 ロマンス」にとても感動し、その後ネットで色々調べていたところ、セルゲイさんの「六手のためのロマンス」の記事に辿り着きました。初恋のヴェーラを初めとするスカローン3姉妹に捧げたというお話はとてもロマンティックで感動しました。その後、ニコライ・バジャーノフ著のラフマニノフの伝記も読んでみたのですが、抽象的な訳文と私のクラシックの知識が乏しい事が原因で、どの曲がどの様なきっかけで作られたのかを結局理解出来ませんでした。
●私が聴いた「二台のピアノ、四手のための組曲第二番 第三楽章 ロマンス」はどの様なきっかけで作られたのでしょうか?
●「二台のピアノ、四手のための組曲第二番 第三楽章 ロマンス」と、セルゲイさんが紹介されていた「六手のためのロマンス」と、その伝記に繰り返し出てきていた「ロマンス 春」とは3曲とも別のロマンスなのですか?
もしご存知なら是非教えて下さい。お願いします。

-> コリエさん

はじめまして。コメントありがとうございます♪

「組曲第二番」がきっかけでラフマニノフがお好きになられたのですね! 曲が優れているのはもちろんですが、お友達の演奏も素晴らしかったのでしょうね。

この「ロマンス」についての記事に目を留めていただけて光栄です。スカローン三姉妹とのエピソードは私自身いつも情景を想像すると夢がふくらみます。共感して下さってとてもうれしいです。


バジャーノフによる伝記は格調高い名文でラフマニノフの音楽の本質をよく伝えているのですが、少し文章が凝りすぎていて読みにくいところがありますよね。確実な資料を基にして書いている部分と、作家としての想像を交えて書いている部分の区別が明確でなかったりして、私もそういう点には不満を覚えることもあります。


ご存知の通り交響曲第一番の初演の失敗の後ラフマニノフは何も作曲できない時期が続き、ダーリ博士の助力を得て作曲への意欲を取り戻しました。その復活を告げる第一作となったのがお聴きになった「二台のピアノ、四手のための組曲第二番」です。従って彼が作曲の才能を自ら確認し、再び作曲家として歩んで行く決意を宣言した記念すべき作品と言えると思います。


「ロマンス」という言葉はクラシックでは曲のタイトルとしてよく用いられ、ロシアでは歌曲一般を指すのにも用いられます。ですから「ロマンス」というタイトルでも全て別の曲ということになります。

ただこの「六手のためのロマンス」と「組曲第二番」の第三曲「ロマンス」には関連があります。実を言うと今まさにそのことを記事にしようとして準備しているところなのです。少し公開できるまで時間がかかってしまうかも知れませんが、それを読んでいただけたら幸いです。なかなか思うように筆が進まずにいるのですが、コリエさんが待っていて下さると思うと意欲が湧いてきそうです。^ ^


今後ともどうぞよろしくお願いします。

セルゲイさん早速のコメントありがとうございます。「二台のピアノ、四手のための組曲」はIPODに入れて毎日通勤中に聴いてるんですよ。それにしても、セルゲイさんは本当にラフマニノフに関して造詣が深くていらっしゃいますね。色々な記事を読んでも、よく分からない事が多かったのですが、セルゲイさんの解説は分かり易くてとても助かりました。「六手のためのロマンス」と「組曲第二番」の第三曲「ロマンス」は別の物だけど、何か関連があるのですね。お書きになっている記事が出来上がるのを心待ちにしています!作曲家の人生を思い浮かべながら曲を聴くと、一層心に染み、感動も増しますので、これからもラフマニノフについて色々教えて下さい。よろしく願いします

-> コリエさん

iPodで毎日お聴きとは、本当に「組曲第二番」がお好きでらっしゃるのですね。^ ^ 作曲家の存命中には考えられなかった鑑賞形態ですが、それほどまで熱心に聴いてもらえてさぞかし草葉の蔭で喜んでいることでしょう。


私は音楽については全くの素人で、楽譜もろくに読めないのですが、この偉大な芸術家について理解を深めようと自分なりに努力しているところです。未熟ながらも呻吟しつつ書いている記事が少しでもお役に立てたとすればこの上ない喜びです。

HNに名前をお借りしているくらいこの作曲家に傾倒している訳をいろいろと語りたいのですが、思い入れが深ければ深いほど思うように言葉が出てこなかったりします。それでも訥々とでも少しずつ語っていきたいと思っていますので、よろしければ今後もお付き合い下さいませ。

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