今日の『N響アワー』はシェーンベルク

2008年5月 4日

今日の『N響アワー』はシェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」だった。この手の音楽は自分で出費をしてまで聴きたいとは思わないのでこういうのは貴重な機会である。

周知の通りシェーンベルクは12音列の技法を完成させた作曲家で、現代音楽の父とも呼ぶべき存在だが、この「ペレアスとメリザンド」はそうした試みに至る以前の作品で、後期ロマン派の作風をとどめており比較的聴きやすい作品である。ただ聴いてみた感想は、きれいなことはきれいだが、心に響くものが何もない音楽、というものだった。最も印象に残っているのはフルート奏者三人のうち二人が女性だったのだがいずれもきれいな方だった、ということだったりする。

この種の作品を聴いていつも思うのは、芸術における前衛の意味とは何だろう、ということである。(この作品は無調ではないが)調性なしでも音楽を作れると証明してみせたところで、そこに作者自身の自己満足以外に何か意義があるのだろうか? 私としては芸術とはまず何よりも人の心を勇気づけたり、安らぎを与えるものであって欲しいと思うのだが。

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N響アワー「ペレアスとメリザンドの世界」

NHK教育放送の「N響アワー」で久しぶりにシェーンベルクの交響詩「ペレアスとメリザンド」を聴く。。ペレアスとメリザンドの愛の世界もシェーンベルクにかかると...

コメント

>そこに作者自身の自己満足以外に何か意義があるのだろうか?私としては芸術とはまず何よりも人の心を勇気づけたり、安らぎを与えるものであって欲しいと思うのだが。


そうですね、それも一つの考え方だと思います。聞き手の望まない自己満足を耳に突っ込まれてもあまり気持ちの良いものではないですから。


ただ、個人的には音楽のあらゆる可能性を追求して示唆していくというのはとても意義のあることだと思います。多少アカデミックなきらいがありますので、コンサートに使用する際は演奏者の力量や、聞きやすい曲以上に考え抜かれたプログラムであるべきとは思います。必要以上に難しいものを有難がり、素朴ながら美しい曲を軽視する自称音楽通も嫌いですが(笑)誰かが実験的なことをしているとアマとはいえ同じプレイヤーとしてとても刺激を受けるし、小難しい理屈はさておいてワクワクします。音楽はナマモノですから、いつも面白いものとも限りませんが、そういうもの世に問うというのは自己満足に終わらないチャレンジ精神があって、変に小さくまとまるよりは好感が持てます(勿論結果として素晴らしい音楽になるかは未知数ですが)。生意気なことを申し上げましてすみません。

-> 鳥野空音さん

コメントありがとうございます。もちろん、芸術の発展のためには自由な創作が奨励される環境が必要であることは言うまでもありません。ただ、受け手(音楽で言えば聴き手)のことを考えない独善的な創作態度が優れた芸術作品を生み出すとは私には思えないのです。そして、例えばラフマニノフの音楽を前時代の遺物として侮蔑した人たちがどれだけ同時代の聴衆と誠実に向き合ったかというと、私にはかなり疑わしいように思われるのです。

斬新な趣向を凝らした小難しい作品でもおもしろがって鑑賞できるゆとりのある態度があればより豊かな音楽体験を積むことができるのだろうとは思うのですけど、どうも私は音楽に限らず“現代”と名のつくものには疑り深くなってしまっています。現代音楽について(というか芸術における“新しさ”の意義について)はこのほかいろいろと思うところがあるので、そのうちあらためて書いてみるかも知れません。

今ではかつてのような前衛の全盛時代はすでに過去のものとなったようですけど、これからのクラシック音楽における作曲活動はどんな方向に向かって行くんでしょうね。一人の音楽ファンとしてはどれほど技法が移り変わっても、ベートーヴェンが「ミサ・ソレムニス」の楽譜に書いたように、音楽とは心から出て心へと伝わるものであって欲しいと願うばかりです。

>芸術とはまず何よりも人の心を勇気づけたり、安らぎを与えるものであって欲しいと思うのだが。

もちろん、芸術にはそういった側面もありますが、決してそれだけではないと思います。というのも(前衛音楽ではない)所謂伝統的なクラシック音楽の中で現在傑作とされている作品でも、悲痛に満ちた暗く絶望的な音楽、テーマが退廃的で一見不健全とも思える音楽も少なからずあるからです。有名どころの曲を挙げると、前者の例ではシューベルトの「未完成」、「死と乙女」、「冬の旅」などが、後者の例ではヴァーグナーの「トリスタンとイゾルデ」、R.シュトラウスの「サロメ」、ストラヴィンスキーの「春の祭典」などがありますね。それから、かのJ.S.バッハの「マタイ受難曲」。文字どおりイエス・キリストの十字架の受難という重いテーマを扱い、曲中のアリアも悲痛に満ちた音楽が多いのですが、実際聴いてみると、実に深い感動を与えてくれる芸術作品であると感じられます。

ところで、第二次大戦後の前衛音楽は音列技法に代表される無調音楽がほとんどで極めて取っ付き辛く、聴いていても拒否反応を引き起こすものが多いので、当方もめったに聴くことはありません。せいぜいその手前のバルトーク(弦楽四重奏曲など)やベルク(ヴァイオリン協奏曲など)あたりまででしょうか。上記のクラシック音楽とは違い、現代音楽は作品ごとに語法がばらばらであるため、やはり聴く側もそれなりの音楽的訓練を受けないと、鑑賞は難しいと思います(自分も音楽の専門家ではないので何とも言えませんが)。
ただ、いまだに専門家(と一部のマニア)しか受容できないような音楽(ある意味、孤高の創作物)が果たして数百年先に脚光を浴びるようになっているかというと甚だ疑問に思います。かつては「マタイ受難曲」のように100年後に復活演奏された作品もありますが、こと現代音楽に関する限り、伝統的な和声機能から完全に逸脱しているという時点で、もはや一般的なリスナーの感性でとらえられる限界を超えているのではないかと思われるからです。

-> ミューズさん

詳細なご解説ありがとうございます。いろいろと参考になります。

もちろん、私も前向きで健康的な作品ばかりが優れた芸術だと思っているわけではありません。というかそもそも私が最も敬愛する音楽家であるラフマニノフ自体が綿々と悲嘆に暮れるような音楽を多く残しているのであり、私はそういう作品から勇気や安らぎを得てきたのですから。「人の心を勇気づけたり、安らぎを与えるもの」というのはそういう広い意味で受け取っていただければ幸いです。


ベルクのヴァイオリン協奏曲は私も聴いたことがあります。かなり身構えながら聴いたのですが、意外に叙情的な味わいもあったりして、思ったほど受け容れ難いようなものではありませんでした。

ただ仰る通りかつての前衛音楽が復活蘇演によって多くの聴衆から支持されるようになるということは考えにくいでしょうね。美術の世界では今でも前衛の影響力は大きいようですけど、音楽の場合には伝統的な機能和声を踏み外すと生理的なレベルで不快感を生起させてしまうという難しさがありますね。

これから先、かつての前衛とは違った手法で新しい音楽を生み出すことが果たして可能なのか、興味深いところです。それがもし今を生きる私たちの心に寄り添ってくれるものであるならもちろん歓迎したいことですけれど。

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