『ラフマニノフ ある愛の調べ』

2008年7月31日

遅ればせながら先日ようやく映画『ラフマニノフ ある愛の調べ』を見に Bunkamura のル・シネマまで行ってきた。ロシアのロマン主義を代表する作曲家、セルゲイ・ラフマニノフの音楽はこれまでに何度も映画に利用されてきたが、彼の生涯そのものが映画の主題となったのはおそらく初めてのことであり、一応見ておく必要があるだろうと思ったのだ。


あらすじにマリアンナという聞いたこともない女性の名前が出ていたのでかなりの脚色を交えた作品なのだろうとは思っていたが、ちょっとあり得ないほどの創作がふんだんに盛り込まれていてかなり当惑してしまった(終了後には「この作品は芸術的な創作であり歴史的事実に基づいていない部分もある」という趣旨の断り書きが表示された)。

冒頭からカーネギー・ホールでのコンサートでソ連大使が来場していることを理由に演奏を拒否するというシーンに絶句…。アンナと会っていてチャイコフスキーとの約束をすっぽかしただって? そのほか「交響曲第1番に取り組んでいた頃にはとっくにズヴェーレフとは決裂していて、その後住まわせてもらっていたのがナターリヤのいるサーチン家だったのだよ」とか「いや、だから嬰ト短調のプレリュードはアンナに夢中になっていたのよりずっと後、作曲家として円熟を迎えた時期に書かれた彼の代表的なピアノ独奏曲なんだってば!」とか、彼の生涯をよく知る人なら突っ込みを入れずにはいられないところが満載である。最後の結末も、あれではまるでロシアを離れた後長い沈黙を破って最初に書かれたのがパガニーニ・ラプソディーだったみたいだ。私の好きなコレッリ変奏曲は一体どこへ行ってしまったというのか…。

もちろん、フィクションを採り入れることによって事実よりも真実らしいラフマニノフの姿が浮かび上がってくるのだったらそれもいい。問題なのはそうしたあり得ないレベルの作り話を紛れ込ませることによってラフマニノフの何を描き出したかったのかが全く見えてこないことだ。渾身の傑作であるピアノ協奏曲第2番にこめられた思いもあれでは窺い知ることはできない。

物語はラフマニノフの女性関係を軸に展開していく。前述の通りラフマニノフはニコライ・ズヴェーレフとの師弟関係が決裂してこのピアノ教師の下宿を出た後親類のサーチン家に身を寄せることになり、従妹であるナターリヤ・サーチナとは同じ屋根の下で暮らしていた。その時点ではおそらく兄妹のような間柄でしかなかったはずのこの二人にどのようにして恋愛感情が芽生えていったのかはよくわかっておらず、もしそうした部分を(たとえ想像を交えてではあっても)描き出すことができていたらそれなりに興味深いドラマになっていたことだろう。しかし交響曲第1番に取り組んでいる最中に十年振りにナターリヤと再会するという設定ではそれも不可能だ。メロドラマとして見てもあまりいい出来ではなかったと思う。

内容はともかく音楽は楽しんで聴けるかと思っていたが、(映画だから仕方ないのだが)交響曲第1番もピアノ協奏曲第2番も第1楽章の第1主題が終わるといきなりフィナーレのコーダにとんでしまい消化不良。原題が「Ветка Сирени」(“ライラックの小枝”の意)で筋書きもライラックにこだわった作りになっているにも関わらず彼の作品21-5の歌曲が使用されなかったのも解せないところである。なお一部に聴き覚えのないメロディーも流れていたのでこの映画のためのオリジナルの音楽も使用されていたものと思われる(私の知らないラフマニノフ作品では…、おそらくないと思う)。

そんなわけで(予告編を見てこういうことがある程度予想できていたので)わざわざ1000円で観賞できる日を選んで行っただけのことはあった。ナターリヤ役の女優さんがとてもきれいな人だったのと、次女タチアナを演じた女の子がかわいかったのが救いだった。


なお彼の生涯にあまり詳しくない方のために簡単に補足しておくと、アンナとはアンナ・ロドィジェンスカヤというロマの血を引く年上の人妻で、夫は交響曲第1番よりも少し前の作品であるボヘミア奇想曲を献呈した相手である。交響曲第1番に取り組んでいた当時ラフマニノフはこのアンナに夢中になっていたと言われ、交響曲第1番の総譜には「A.L.に」という献辞が添えられているがこの“A.L.”とはアンナのことだと推測されている。この曲を含め彼の初期の作品にはロマの音楽の影響を色濃く感じさせるものが多いが、それにはこのアンナの存在も大きく関わっていたのかも知れない。

マリアンナはラフマニノフの伝記には名前の出てこない女性で、おそらく架空の人物なのだが、どうやらこれは彼と文通等を通して交流のあった女流作家、マリエッタ・シャギニャンをモデルにしているという見方もあるようだ。マリエッタは初め“Re”というペンネームでラフマニノフと文通して芸術についての意見を交わしていた女性で、歌曲を作るための詩を推薦するなどラフマニノフの音楽に大きな影響を与えたことで知られている。後には彼と直接会い、ニコライ・メトネルを交えて会食したこともあったらしい。ただし彼らの文通が始まったのはラフマニノフが作曲家としての地位を確立しナターリヤと結婚した後のことで、二人が恋愛関係にあったという事実はない。


ラフマニノフのコンサートの度に白いライラックの花を贈っていた熱烈な女性ファンがいたというのは史実である。前述の歌曲が広く親しまれたことでライラックの花は彼を象徴する存在になっていたのである。ニコライ・バジャーノフ作の伝記によると贈り主の女性はФ.Я.ルッソというキエフの医師の妻で、彼女は 命をかけて大切にしていたものすべてを失い、不信のどん底にあった時に、かねて熱愛していたラフマニノフの音楽の中に自身の心の支えを見出し、ふたたび真実と善意を信じることができた。 のだという。この贈り物は革命後に彼がロシアを離れてからも届くことがあったらしく、ラフマニノフもこれを喜んで文通が行われたらしい。

進歩主義を気取る評論家たちがいかに陳腐だとか時代遅れだとかこき下ろそうと、ラフマニノフの音楽には生きることに困難を見出した人に光を差し延べる力が確かにあるのだ。この麗しいエピソードははっきりとそれを証明している。不格好に粉飾されたフィクションよりもこの実話の方が遥かに感動的だと思うのは私だけだろうか…。

追記:2010年10月28日

別の資料を調べてみるとこのフョークラ・ルッソという女性はギムナジウム(高等中学校)の教師と説明されていた。バジャーノフが描いているこの女性の心情描写も、史実なのかどうかはちょっとよくわからない。

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コメント

先日、遅ればせながら、ラフマニノフの交響曲第2番を聴いてみました。やはり、1番の作者と同一人物とは到底思えないほどの作風の変化です。1番の作曲から10年余りしか経っていないのにこの2つの交響曲の間には実に大きな断層があります。

やはり、ラフマニノフは、1番の初演の失敗をきっかけに、音楽創作の価値観を180度転換したのではないかと思われるのです。すなわち、“芸術作曲家の使命として最も重要なことは、常に前人未到の境地を発見して切り開き、音楽史を前進させることである”とする価値観から、“万人が容易に理解でき、しかも魂を揺さぶるような感動を与えるような作品を作ることこそが作曲家の重要な使命である”とする価値観への転換です。同時代の大作曲家であるR.シュトラウスが、オペラ「ばらの騎士」以降、それまでの急進的な様式から一転保守的な作風へと急旋回していったのと似ています。

ラフマニノフの2番の第3楽章の美しさは言うまでもありませんが、上記の前者の価値観を信奉する作曲家や評論家筋からみれば、酷評されるのも無理はなかろうかと思います。彼らの価値基準からすれば、当然、同じロシアの大作曲家であるストラヴィンスキーの「火の鳥」、「ペトルーシュカ」そして何よりも「春の祭典」のほうが遥かに重要な作品だということになります(もちろん、これらの曲は今日では、コンサートでは不可欠なレパートリーとなっているが)。

-> ミューズさん

交響曲第2番お聴きになりましたか! この美しい作品をミューズさんにも知っていただけてうれしい限りです。

180度の転換と言っていいかどうかはよくわかりませんが、交響曲第1番の以前と以後とではラフマニノフの創作態度に断絶があるのは確かだと思います。彼は第1番の初演の失敗後にレフ・トルストイとアントン・チェーホフという二人の芸術家と出会っているのですが、私はそれ(特にチェーホフの方)が大きく影響しているものと推測しています。


トルストイとは知人の仲介によって面会したのですが、この著名な文豪は当時宗教的な回心を経て芸術についてかなり偏狭ともいえるような極端な考え方をしていました。それでこの面会は残念ながら失意の作曲家を余計に落ち込ませることになってしまいました。ラフマニノフにとってはあまり幸福な体験ではありませんでしたが、それでもトルストイの「優れた芸術とはまず何よりも教養のない民衆に理解されるものでなければならない」という考え方は彼としても重く受け止めざるを得なかったのだと思います。


その後彼はチェーホフの知遇を得ることになるのですが、トルストイとは異なりチェーホフはラフマニノフの人柄や才能を大いに賞賛し、励ましを与えました。この励ましがなければピアノ協奏曲第2番をはじめとするその後の傑作は生まれなかったかも知れません。ラフマニノフは芸術家としての生き方、創作態度についてチェーホフから大きな影響を受けています。

チェーホフもトルストイの晩年の思想には影響を受けていて、「芸術とは新しくなければならない」というような考え方には極めて懐疑的な態度をとっていました。それは彼の劇作家としての出世作である『かもめ』におけるコスチャの劇中劇の扱いにはっきりと見てとることができます。従って、新たな作曲技法を開拓するよりも聴く人の心に響く作品を創り続けたラフマニノフを支えていたのはチェーホフへの尊崇の念だったに違いないと私は考えています。だからこそ、コンサートの度にライラックの花を贈り続けた女性のように彼の音楽を心から愛する人が多く生まれたのだと思います。

このあたりのことはこのサイトで詳しく語ってみたいと以前から思っているのですが、重たいテーマなのでなかなか手がつけられずにいるところです(苦笑)。


“古臭い”ということで絶えず批判を浴びた彼の作品のうち最も徹底して酷評されたのが、彼の作品では例外的なほど新しさへの意欲(“野心”といってもいいような)の充溢する交響曲第1番だったというのは皮肉なことですね。評論家という人たちの定見のなさを感じさせるエピソードです。

バジャーノフによる伝記には、トルストイが彼に「あなたの作品を必要とする人がいると思いますか?」と問いかける場面があります。トルストイとの会見の様子の詳しいことは記録が残っているはずもないのでこれは作者の想像なのでしょうが、おそらく実際にそうしたやり取りがあったものと思います。そしてこの問いかけは失意のラフマニノフの心に突き刺さるものだったに違いありません。彼はおそらくその後も生涯を通じて自分の作品は誰かに必要とされているのかと自問し続けたことと思います。新しさを最上の価値として追求し一般の人には理解不能な作品を作った前衛作曲家たちは、自分の作品を必要とする人がこの世にいるのかなんてきっと考えたこともないのでしょうね。

上の説明には時系列に一部誤りがあり、ラフマニノフがチェーホフと出会ったのはトルストイとの会見よりも前のことでした。お詫びして訂正します。

お久しぶりです。
素晴らしい記事ですね。

じっくり読ませていただきました。

-> moonさん

お久しぶりです。お元気でしたか。

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