『道元の冒険』

2008年8月10日

話は前後するが、映画『ラフマニノフ ある愛の調べ』を見に行ったのより少し前に同じ Bunkanura のシアターコクーンで『道元の冒険』(作:井上ひさし 演出:蜷川幸雄)を観劇してきた。チケットが余った関係で半ば義理で行ってきたのだけど、なかなかおもしろかったので簡単に感想を記しておこうと思う。


禅宗の歴史と思想という難しいテーマを扱った作品ながら、井上ひさしさんの衒学趣味とおやじギャグ魂の充溢したコミカルな劇に仕上っている。道元禅師の前で弟子たちが師の半生を振り返る劇中劇を演じながら、そこに道元禅師の見る夢が交錯するという多層的な構成によって鎌倉仏教の思想を現代に引きつけて考えさせることに成功している。この作劇術はさすがに井上ひさしさんならではだと感嘆させられる。今から40年ほども前の作品なのだそうだが、現代の日本で公害問題に抗議して座り込みを行う男を道元の分身のような存在として登場させる先鋭な問題意識は、今も少しも色褪せていない。

一般に難解と受け取られがちな禅の思想を道元禅師の宋での修行のエピソードからわかりやすく的確に描き出しているのも見事である。日本の近代の知識人には禅の思想に理解を示す人材が極めて少ないことを考え合わせるとこれは驚異的なことでもあると思う。

井上さんはアントン・チェーホフの没後100年に当たる2004年にこの劇作家についての論説を朝日新聞夕刊に連載していた。その中で彼は、私たちがチェーホフを乗り越えて進んでいかなければならない点があるとするなら、それは「今、ここ」にこだわり抜かなければならないということだろう、という趣旨のことを述べていた。実際、チェーホフの作品には「今ではないいつか」、「ここではないどこか」というモティーフが繰り返し表れるのだ。

これは私も全く同じことを考えていたので、我が意を得たり、と心強く思ったものだった。今回この劇を見て、井上さんのこの視点には禅の素養の裏付けがあったということがはっきりとわかり、実に合点がいく思いをした。


ただ個人的には違和感を覚える部分もないわけではなかった。特に一点、不満に思ったのは「寺に住む人に多い病は? —痔」といった類いの文字を使った遊びを禅の思想の解説の中で使っていたことだった(北京オリンピックの開会式でも同じようなことをやっていたっけ…)。というのも禅は文字の知識を意図的に侮蔑する傾向が顕著に見られる宗派だからである。このことは浄土系の宗派も含めて鎌倉仏教の現代的な意義を考える上で極めて重要なポイントなのだ。だからここの部分は実に惜しいと思ったのだが、このあたりは文字を書きつけることを生業とする文学者の限界でもあるだろうか…。

道元禅師は凡夫と同じように女性の色香に惑い、既成仏教からの弾圧に怯える人物として描かれている。劇の手法としては、日本の禅宗の開祖として崇められる人物であってもことさらに神格化せず、私たちと同じ等身大の人物として描くことはあってもいいと思う。だだ、それにしても道元禅師が既成仏教からの弾圧を恐がるなどというのはあまりに現実味のない設定のような気がする。

道元禅師は晩年に時の執権、北条時頼の招きで鎌倉を訪れているのだが、これを禅師はひどく悔やんでいたらしい。道元禅師にとってはおそらく旧勢力からの迫害などよりもむしろ、権力者の追従に阿ってしまいそうになる自分自身の心の方が遥かに恐ろしかったはずで、もし“苦悩する道元”というコンセプトで劇を作りたかったのなら、このエピソードを利用した方がより深い劇になったはずだと思うのだが。


この劇は元々は膨大なセリフの量ゆえに上演に時間がかかり過ぎる問題作として知られ、これまでなかなか上演の機会に恵まれずにいた幻の作品でもあったらしい。今回の上演に当たっては作者の井上ひさしさん自身が大幅に内容をカットして何とか上演ができる状態に改めたとのことだが、それでも上演時間の合計は3時間を越えるという長大さだった。

しかし充実した内容ゆえに見ていて冗長とは少しも感じなかった。むしろ終幕を迎えた際には「もう終わってしまう」という名残惜しささえ感じたくらいだった。上映時間90分程度のラフマニノフの映画が後半にはもう飽きてきてしまったのとは好対照である。ただ道元禅師の只管打坐の心境にもっと深刻に迫ろうとするなら、あのあまりにも饒舌なギャグセンスをもう少し抑制する必要があるのではないか、と感じたのもまた事実である。


蜷川幸雄さんの演出は、その井上さんの饒舌なギャグセンスが放つエネルギーを増幅しながらも、劇の方向を見失わないよう巧みに手綱を引き締めて見事だった。道元禅師役の阿部寛さんは大柄な体格を生かした演技で、座っているだけでも存在感があった。少年時代の道元禅師を主に演じた栗山千明さんは清新な演技が見ていてすがすがしく心地よかった。井上ひさしさんのギャグセンスを最も豊かに体現していたのが宋での修行時代の道元禅師を主に演じた北村有起哉さんだった。笑いのとり方の雰囲気にどことなく藤井隆さんを彷彿とさせるものがあった。道元禅師の師、天童如浄を主に演じた木場勝己さんはベテラン俳優らしく味わい深い演技で場を引き締めていた。

この作品は歌や踊りを交えたミュージカル仕立ての劇でもあったのだが、音楽については…、敢えて論評しないでおこう。

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コメント

上演時間3時間は、なかなかヘヴィーですね〜。
でも、「カット前はいったいどれくらいあったんだ?」って話にもなりますが。
 
昔、自分の知り合いがある劇団にいた時、
よく「チケット買って」って来たので、結構見に行ったのを思い出します。
その後、チケットの入手が結構困難になるくらい、人気が出ちゃいましたけど・・・。

その劇団でも、時間は2時間くらいだったと思います・・・。
それでもお尻痛かったですが〜。(笑)

-> ボランチさん

カットする前はどうもまともに上演すると6,7時間はかかる代物だったようです。そんなものを書いてしまう井上ひさしさんのヴァイタリティーには感嘆するばかりです。^ ^

あまり長いのは考えものですが、今回3時間以上の劇を見てみて、内容が充実していれば長さはそれほど気にならないものなんだな、ということも感じました。時間の感覚というのは不思議なものですね。

>今回3時間以上の劇を見てみて、内容が充実していれば長さはそれほど気にならないものなんだな、ということも感じました。時間の感覚というのは不思議なものですね。
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まさに同感です。音楽作品の大作の場合も全く同じことがいえます。例えば、CDやDVDでよく聴く曲ですが、マーラーの「交響曲第3番」が1時間45分、J.S.バッハの「ミサ曲ロ短調」が2時間半、「マタイ受難曲」が3時間半、そして、ヴァーグナーの「パルジファル」が4時間半ですが、全く長さを感じさせません(もちろん、指揮者によって演奏時間が異なるが)。

-> ミューズさん

そうなんですよね。私はそこまで長い曲を聴く機会はあまり多くありませんが、いい音楽を聴いていると時間が快適に、そしてあっという間に過ぎていくんですよね。でもさすがに『指輪』はちょっと常軌を逸していると思いますけど。^ ^

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