キンスマ「おふくろさん」特集

2009年1月11日

紅白歌合戦での鬼気迫る熱唱の記憶もまだ新しいが、9日夜に森進一さんをゲストに迎えた『キンスマ』の特集が放送された。内容は概ねこれまでに知られていたことだったが、森さんを訴えた女性の主張の内容がこれほど詳細に説明されたのはこれまでなかったことではないかと思う。「子供を産んだ」とまで訴えていたとは知らなかった。しかもその子供をマネージャーが殺して埋めたなんて普通に考えてあり得ない話なのだが、よくもまあメディアはこんな話を真に受けて報道していたものだ。こういうのこそ言葉の暴力というのではないかと思うのだが…。

ただ、「おふくろさん」に問題のバースがつけられた経緯とか、川内康範さんが2007年になって突如怒り出した理由がわからなかったのは残念だった。森さんと親しいジャーナリストの鳥越俊太郎さんにもわからないらしい。

しかしともかくこの特集は「おふくろさん」の素晴らしさを再認識するいい機会だった。この名曲が埋もれずに済んだのは本当に幸いなことだった。こういう誰が聴いても泣かずにはいられないようなものこそを本当の芸術作品というのだと思う。森さんの歌を涙腺を緩ませながら聴いていると、例えば4分33秒だとか0分00秒だとかいった子供騙しのようなおふざけに興じていた自称芸術家たちに「こういうのを音楽というのだよ」と教えてやりたい気分になる。最後の黒柳徹子さんのコメントがまた素敵だったな…。

ところで、ひとしきり泣いた後ふと「中居君にとって歌とは何ですか?」と聞いてみたくなった私はやはり根性がねじけているのだろうか。

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>こういう誰が聴いても泣かずにはいられないようなものこそを本当の芸術作品というのだと思う。森さんの歌を涙腺を緩ませながら聴いていると、例えば4分33秒だとか0分00秒だとかいった子供騙しのようなおふざけに興じていた自称芸術家たちに「こういうのを音楽というのだよ」と教えてやりたい気分になる。
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まあ、ジョン・ケージに始まる実験音楽はその名の通り何でもありの世界ですからね。例えば、歌曲の分野にしても、極端な例としては、色々な歌詞をめちゃくちゃに切り貼りしてもいいし、複数のテキストに同時に作曲してもいいし、言語も同時に複数使ってもいいし、自分で勝手に分けのわからない言語を作ってもいいし、テキストをわざと間違わせて歌わせてもいいし、偽のテキストでもよいそうです。要するに作曲者は奇抜な発想に基づいた作品であれば、それをもって芸術に値するとみなしているだけのことです。そういった曲をいくつか聴いてみましたが、音楽というよりは雑音ないし騒音ですね。作曲者にはリスナーの反応など、もとより眼中にはない。もちろん、現代音楽がすべてそのような音楽とは限りませんが。

ただ、西洋音楽の歴史を振り返ってみると、作曲当時には聴衆(あるいは批評家)からは全く理解されなかった(それどころか、ブーイングの嵐)が、その後、徐々に受け入れられ、今日では芸術音楽としての評価が定着している作品がかなりあります。例えば、20世紀前半では、ストラヴィンスキー(特にバレエ音楽3部作)、バルトーク、そしてシェーンベルグら新ウィーン楽派の音楽(ただ、新古典主義時代のストラヴィンスキーや十二音主義の新ウイーン楽派はまだポピュラーではない)がそうです。また、当時は聴衆の理解を超えていたマーラーやR.シュトラウス(特に「薔薇の騎士」以前の作品)、ドビュッシーらの音楽は今や必要不可欠ともいえる定番のクラシック音楽です。さらに19世紀ロマン派の時代に遡ると、ブルックナー、ヴァーグナー、シューベルト(特に晩年)らの音楽の真の偉大さはやはり当時の聴衆には理解できなかったでしょう(特にシューベルトの音楽)。さらに、晩年のモーツアルトや中期以降のベートーヴェンの音楽も当時は前代未聞ともいえる斬新な音楽でした。J.S.バッハの音楽に至っては、時代遅れの音楽として100年近くもの間、埋もれていたことは周知の通りです。そして、上記の音楽は今後も永久に不滅でしょう。ただ、20世紀後半以降の現代芸術音楽(特にケージらの実験音楽)が今後、何百年後かに残っているかどうかは甚だ疑問です。(西洋音楽の長い歴史の中で、20世紀後半以降こそ真の混沌(カオス)の時代だと思う)

一方、同時代のポピュラー音楽(ジャズ、ミュージカル、映画音楽、ポップス等)は、大量生産・消費という商業音楽としての宿命上、また、特定のアーティスト(ビートルズやプレスリーなど)に対する依存性が強いという理由から、ほとんどの作品(特に後者の場合)は消え去っていることでしょう。やはり、この種の音楽は地域的・時代的な普遍性を持ちにくいといえます(しいて言えば、地域的には英米などアングロ・サクソン地域が影響力が強いが)。まさに「歌は世につれ、世は歌につれ」という言葉通り、ポピュラー音楽は各時代、各地域にふさわしい音楽が大量生産・消費されていくことになるからです。

「おふくろさん」も森進一が歌うからこそ、感動的になります。他の歌手では考えられません。「花と蝶」や「港町ブルース」、「襟裳岬」も本人の歌のほうがいいです。また、「津軽のふるさと」や「悲しい酒」、「みだれ髪」、「川の流れのように」もやはり、美空ひばりが歌ってこそ聴きごたえがあります。ただ、例外もあります。「影を慕いて」(昭和7年)や「水色のワルツ」(昭和25年)、「君の名は」(昭和28年)などは曲自体が良く、しかも特定の歌手に依存しないので、他の人がうまく歌ってくれれば聴いてみたいです(もちろん、オリジナルの藤山一郎や二葉あき子、織井茂子の歌が最もよいが)。

また、ポール・アンカやコニー・フランシスらオールディーズ(1950年代〜60年代のアメリカン・ポップス)のナンバー、シャンソンやカンツォーネなどを日本の歌手がカヴァーする時代がありましたが(1960年代)、中にはオリジナルよりもうまく歌う人もいました(例えば、弘田三枝子など)。もう、きりがないのでやめます(笑)。

この番組を見逃してしまいました。残念・・・

ミューズさんほど色んな音楽は聴いてませんが、'70頃 GSに飽きて現代音楽(実験音楽)やハードロック、jazz、フォークなど聴きまくりました。
同じ歌詞でも人により唄い方、演奏も随分違いがある事が新鮮でした。上手な方がいれば、首を傾げたくなるような表現も・・・。
個性って云ってしまえば、それまでですが聞き手も好みがありましょう。
   
大勢の心に響くって、それは凄いことだなぁと考えます。
・・・まだ起きたばかりで文章が滅茶苦茶ですが、一言書置きしますね。

-> ミューズさん

作品の評価が時代の推移とともに変わっていくというのはよくあることですね。ただ、創作されてすぐであれ時間が経過してからであれ、作品が高い評価を獲得するかどうかはそれが聴き手の心を揺り動かすことができるかどうかにかかっているのではないかと思います。

ラフマニノフの作品は作曲家の存命中は大衆からの熱狂的な支持を獲得した一方で、玄人筋からはいずれ時代の経過とともに忘れ去られる流行音楽と見なされていたと聞いています。しかし結果的には彼の作品は常に新たな世代の聴衆に感銘を与え演奏家の意欲をかき立ててきました。それに対し彼の作品と同時代に様々な形の「主義」の名の元に生み出された作品のほとんどは百科事典の項目として辛うじて命脈を保っているのみで、音楽としては実質的に死んでいるのと同じです。たとえ時代とともに聴衆の嗜好が変わるとしても、聴衆のことを全く考慮していない作品が支持を得るということはおそらく今後もないだろうと想像しています。

ジョン・ケージの4分33秒みたいなものはまともに論じる価値はないと思いますが、一口に現代音楽といってもいろいろなものがあるでしょうから、中には自分の好みに合うものも見つかるかも知れないとは思っています。ただ私としてはひたすら新しさだけを追い求めてきた20世紀の前衛の考え方には全く共感できないので、そのあたりを自分の中で納得できないうちは現代音楽の作品群を渉猟して自分好みのものを探してみようという気にはなかなかなれないと思います。

現在のところ一般的な音楽ファンとクラシック音楽における創作の現場との間には埋め難い溝ができてしまっていますが、こういう状況が望ましいことでないのは間違いありません。何とかしてまた一般的な聴衆が新たな創作に期待を寄せられるような状況になって欲しいのですが、それは作曲家たちがもう一度現代の世界を取り巻く状況や聴衆の心情と誠実に向き合って創作を行うことができるかどうかにかかっているでしょうね。その前にまず20世紀の前衛の「失敗」(敢えてこういう言い方をしますが)を総括する作業というものが必要になる気もしますが。


ポピュラー音楽のほとんどは時代の推移とともに忘れられていくことになるでしょうが、その中でも本当にすぐれたものは時代を超えて残っていくと思います。「おふくろさん」に関しては森さんの歌唱でないと本当のよさが表れないのでスタンダード・ナンバーのように歌われるということはないかも知れませんが、現代には録音という技術があるので森さんの歌唱そのものはきっと時代を超えて人々の記憶に生き続けるだろうと思います。その意味でこの曲の封印が解かれたことは作詞者の川内さんのためにもよかったと思います。


-> Kenおじさん

カバーにもいろんなものがありますね。去年の5月にPCを新調した時に、動画の再生が楽になったのがうれしくてウェブ上にあるいろんなもの(法的に問題のありそうなものも含めて)を見てみたのですが、その時にWinkの曲をそのオリジナルと聴き比べるといいうことをやってみました。そしたらこれは私の好みのせいかも知れないのですが、ほとんどの曲でオリジナルよりもWinkの歌の方がいいと感じました。あの頃私たちは決して二流の物真似を聴かされていたわけではなかったんだ、と思うと何となくうれしくなってしまいました。^ ^

聴く人の心に響くというのが音楽にとっては最も大切で、そして最も難しいことなんじゃないでしょうかね。

では、中居クンに代わって、自分が答えておきましょう〜。(笑)
『自分にとって“歌”とは・・・歌うものではなく、聴くものである・・・』
なんちゃって・・・って感じですけど。
 
しかし、中居クンおよびSMAPを庇うわけではないですけど、
彼らの歌って、カラオケで歌うとよく分かるんですが、
キー高いし、結構難しいんですよ・・・。
まあ依頼してるのがすごい人たちばかりですから、
出来上がってくるとそれなりのクオリティにもなっちゃいますしね〜。
 
でも、基本的にSMAPは口パクはしてないみたいだし、
中居クンもそれによく付いていってると、自分は思いますけど。(笑)

-> ボランチさん

中居君の音痴はどこまでが本当でどこからがネタなのかよくわからないところもありますね。^ ^ SMAPの人気に見合ったネームバリューのある作家陣に曲を発注すると実力不相応な楽曲が完成してしまうというところもあるんでしょうね。

私も見ましたけれど、ワイドショーの延長に感じてしまいました。
「おふくろさん」の楽曲を再認識できたのは良い事だと思います。
「おふくろさん」は森さんの歌唱でなければと思いました。


-> moonさん

こんばんは。お久しぶりです。

この番組を通して「おふくろさん」の真価があらためて認識されることになればいいな、と思っています。

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