クルト・ザンデルリングさんの芸術

2009年4月27日

先日のエントリーで述べたように、Wikipediaのクルト・ザンデルリングさん(“ザンデルリンク”と表記されることが多いが語末は濁った方がいいらしい)の項目を加筆する過程で新たに知ったことや気づいたこと、そこには書き切れなかったことなどについて述べてみたい。


ザンデルリングさんは周知の通り母親がユダヤ人だったためにナチスの台頭を機にソ連に亡命したのだが、これまで私が目にしてきた日本語の資料にはその経緯についてあまり詳しいことが書いてなくて、この決断には彼自身が共産主義の理想に共鳴するところが大きかったのかと思っていた。ところが今回あらためて調べてみると、彼はベルリン市立歌劇場のコレペティートルに採用されてまもなくナチスによってドイツ国籍を剥奪されるというところまで状況は悪化していたそうで、この決断はそういうのっぴきならない事情に迫られてのものだったようだ。亡命先にソ連を選んだのはおじがソ連に在住していたのでそれを頼ったということだったらしい。自分の意志ではなく巨大な運命の歯車に翻弄されての決断ということのようで、一人の才能ある若者をこのような苦境に立たせた歴史の残酷さにあらためて思いを馳せた。


こうして移り住んだソ連で彼はドミートリィ・ショスタコーヴィチと知り合いになるのだけど、仲介した人はザンデルリングさんのことを「この外国人は話をしても大丈夫な人ですから」と紹介したという(吉田秀和さんのエッセイによる。吉田さんも何かの雑誌記事を参照していたのだと思う)。このエピソードは当時のソ連の人たちが置かれていた状況を如実に物語っており、生々しい証言には慄然としたものを覚えざるを得ない。つまりショスタコーヴィチの周りには迂闊に本音を話してはならない人がいたということである。

今回ザンデルリングさんのことを調べているうちにドイツの新聞のインタビューの非公式な日本語訳があるのを発見して興味深く読んだ(おそらく法的な問題があるはずなのでリンクはしないでおく)。そこで彼は、自分がショスタコーヴィチ作品の解釈において西側の指揮者よりも有利な点があるとすれば、それは作曲家本人と個人的に知り合いだったということにではなくて、彼が置かれていた状況を身を以て知っているというところにある、と語っていた。

こうした次第でザンデルリングさんにとってショスタコーヴィチ作品は極めて重要なレパートリーであるわけなのだけど、興味深いのは交響曲全曲はレパートリーにしていないことだ。Berlin Classicsへの録音を集めたボックスセットには、全15曲のうち第1、5、6、8、10、15番だけが収録されている。ここに収録されているもの以外にも演奏したことのある作品があるのかどうか知らないのだけど、とにかく全曲を演奏していないのは確かである。

さらに興味深いのは、このボックスセットの曲目から判断する限りでは標題付きの作品や声楽を伴う作品を尽く避けているということである(第5番はよく「革命」などとも呼ばれるが、これは正式な標題ではなくニックネーム)。ショスタコーヴィチ作品が作曲家の置かれていた政治的状況と密接に関わっているということは理解しつつも、彼としてはあくまでも純粋に音楽作品として演奏したかったということなのか。このあたり、同じ境遇に生きつつも音楽と政治との関わり方について両者には微妙なスタンスの違いのようなものがあったのかも知れない。なお、彼の三人の息子たちはいずれも演奏家として大成し、単なる親の七光りではない独自の地位を確立しているのだが、このことも彼とショスタコーヴィチとの相異点といえそうではある。


彼がソ連時代に関わりを持った音楽家としてもう一人重要な存在がエヴゲニー・ムラヴィンスキーである。彼はレニングラート・フィルの副指揮者としてムラヴィンスキーの下で研鑚を積んだのだが、この二人の指揮者は芸風がやや異なり、特にテンポ感覚に大きな違いが見られるように思う。私はムラヴィンスキーについてはあまりよく知らないのだけど、音楽が感傷に流れるのを嫌い、速めのテンポを鉄壁のアンサンブルで突き進んでいくタイプの指揮者だと理解している。それに対しザンデルリングさんはかなり遅めのテンポ設定を好み、音楽を自然な息使いで歌わせながら全体の構成を堅固にまとめ上げる手腕に定評のある指揮者である。

このように、ショスタコーヴィチにしてもムラヴィンスキーにしても、彼は偉大な先達から深く影響を受けながらも独自の見識で自らの音楽を築いてきたことがわかる。そのいかつい風貌からは頑固一徹の性格というような印象を受けてしまうが、そうした外見とは裏腹の柔軟な姿勢がこの指揮者の魅力だと思う。


それからこれはピアニストのアナトール・ウゴルスキさんが新聞のインタビューに答えて話していたことなのだけど、ウゴルスキさんはレニングラート音楽院でザンデルリングさんの息子さん(おそらく現在指揮者として活躍中のトーマス・ザンデルリングさんのこと)と同級生で、彼の家に遊びにいくとソ連ではめずらしかった西側の現代音楽の楽譜が置いてあって、それにとても興味を惹かれたのだという。

ザンデルリングさんはそれほど現代音楽に熱心に取り組んできた演奏家ではないと思っていたので私にはこの話はやや意外だった。ただ、当時ソ連に在住しながらこうした音楽に関心を示すというのはかなりの危険を伴うことだったはずで、そうした状況の中でも世界の音楽事情に鋭敏にアンテナを張りめぐらせていたというのは彼の柔軟な姿勢をよく示す事実だと思う。ウゴルスキさんはその後現代音楽を中心に活動することになり、そのためにソ連時代は不遇をかこってしまうことになるのだけど、そうした道を歩むことになるきっかけがドイツからやってきたザンデルリングさんだったというのは実に興味深い運命の巡り合わせである。


その後ザンデルリングさんは1960年に東ドイツへ戻り、ベルリン交響楽団の首席指揮者に就任した。このオーケストラを西側のベルリン・フィルへの対抗馬に仕立て上げようという東ドイツ政府の指名を受けたのである。こうしてベルリン響は彼の下で世界的な楽団へと成長を遂げるのだが、1952年に設立されたばかりという歴史の浅いオーケストラを短期間のうちにそこまで鍛え上げるというのは、東ドイツ政府の国家の威信を賭けた支援があってのこととはいえ実に驚嘆すべきことである。

そして彼は1977年に17年間務めたこのポストを離れ、フリーの立場で活動するようになった。ベルリン響とはその後も名誉指揮者として緊密な関係を保ったのだが、こういう身の処し方も実に見事なところである。中には長年にわたって一つのオーケストラに君臨した指揮者が最終的には楽団との関係を悪化させて気まずく離れていくという例も少なくなく、このザンデルリングさんとベルリン響のようなケースはむしろ稀有なことと言えるのではないかと思う。


ザンデルリングさんのこうした出処進退のさわやかさは引退の決断にも顕著に表れた。彼は90歳を迎えた2002年に指揮活動に自ら終止符を打ったのである。出処進退の全てを自ら決断しなければならない自由業である指揮稼業にあって、このように自らの意志で明確に期日を定めて活動に幕を降ろすという例も実はなかなかないことだと思う。音楽評論家の寺西基之さんは「まさに自分の芸術の高みを極めたところで潔く引退し、これ以上ないと思われる有終の美を飾った」と評している(「クラシックCD エッセンシャル・ガイド150指揮者編」)。

この発表を聞いたベルリン・フィルの首席指揮者、サイモン・ラトルさんは彼の引退を惜しみ、一つのコンサートを受け持つのが体力的に厳しいのなら前半と後半を自分と半分ずつ担当する形で活動を継続してはどうか、と申し出たという。この話は以前ラジオで彼の演奏のライヴ録音が放送された時に解説の方(どなただったか忘れてしまった)が紹介していたものである。彼は「聴衆にいい印象を残したまま引退したいので」、とラトルさんの申し出を固辞したそうだが、かつてライバルとして競い合ったベルリンの二つのオーケストラの元首席指揮者と現在の首席指揮者の間にこのような心温まるエピソードがあったとは、時代の推移を思うと感慨深いものがある。


まだもう少し書きたいことがあるのだけど、長くなったので一度この辺りで区切りにして公開しておくことにする。

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