チェーホフとルビンシテイン兄弟

2010年5月30日

以前述べたように、私が最初にロシアの芸術に関心を抱くようになったのはアントン・チェーホフの戯曲を読んだのがきっかけだった。チェーホフは帝政末期に活躍したロシアの作家、劇作家で、特に『かもめ』などの作品を通じて世界の演劇史に革命をもたらした、偉大な芸術家である。

そのチェーホフは音楽を愛した人で、その創作においても音楽から大きな影響を受けていたことが指摘されている。チェーホフの作品には当時のロシア社会に横たわる深刻なテーマを取り扱ったものが多いが、それにも関わらずその筆致には常に抒情詩的な美しさが湛えられている。そのことがチェーホフ作品の大きな魅力となっているのだが、そうした彼の作風を支えていたのは彼が生涯愛してやまなかった音楽だったのである。

そしてチェーホフは当時の多くのロシアの音楽家たちと関わりがあった。その中にはロシアの音楽史上の重要人物も多く含まれている。昨年夏に予告してからかなり日が経ってしまったが、そのことをこれから少しずつ述べていきたい。なお、本稿の内容はそのほとんどをエウゲーニイ・バラバノーヴィチ著、中本信幸訳「チェーホフとチャイコフスキー」(新読書社)に依存している。この本はモスクワのチェーホフ博物館に長年勤務しチェーホフ研究に生涯を捧げた著者による労作で、ロシアの芸術に関心のある方にはたまらなく興味深い内容が記されているので、ぜひ一読をお薦めしたい。


今回はまずルビンシテイン兄弟のことについて説明したい。アントン・ルビンシテインは19世紀のロシアを代表する作曲家、ピアニスト、指揮者であり、大公妃エレーナ・パーヴロヴナとともにロシア音楽協会を設立し、その後のロシアの音楽界に多大な影響を与えた人物である。彼の影響下に西欧の音楽理論を重視するロシア音楽の流派が形作られ、グリンカの流れを汲む五人組などの国民楽派に対抗する勢力をなしたのはよく知られるところである。

チェーホフは若い頃、このアントン・ルビンシテインと容貌が似ていて、家族の間で“ルビンシテイン”と呼ばれることもあったのだという。画家の兄、ニコライ・チェーホフがこの頃の作家の姿を描いた肖像画が残っているのだが、それはイリヤ・レーピンによるアントン・ルビンシテインの肖像画を意識して、両者の類似を強調したかのような作品なのである。

チェーホフはこの自身と同名の音楽家による交響楽の演奏会に足を運んだことがあった。また正確な記録は残っていないようだが、バラバノーヴィチはピアノ・リサイタルをも聴いたに違いないと推測している。チェーホフは冗談交じりに この世の中には二人のアントンしか存在しない。ぼくとルビンシテインだけだ。ほかの人たちをぼくは認めない。 などと語ったりもしたというから、よほどその演奏から深い感銘を受けたものと思われる。


このアントン・ルビンシテインの弟、ニコライ・ルビンシテインもまた著名なピアニストで、ロシア音楽史の重要人物である。正確な記録は残っていないようだが、チェーホフはこのニコライの演奏も聴いたことがあるらしいのである。というのも、やはり当時の著名なピアニストであるピョートル・ショスタコフスキーの演奏について批評した文章の中で、チェーホフはニコライを引き合いに出しているからだ。チェーホフが実際に聴きもしないで演奏内容を論じるという無責任なことをするとは考えにくいので、ニコライの演奏をも聴いたことがあるのはほぼ間違いないと思われるのである。

チェーホフがモスクワ大学医学部入学のためタガンロークからモスクワへ出てきたのが1879年のことだった。一方ニコライ・ルビンシテインは1881年2月に亡くなっており、前年の1880年のうちにはすでに病気のために演奏活動を停止している。ということは、チェーホフは大学入学から間もない、おそらくは勉学のみならず新生活への適応にも追われて多忙だったであろう時期に、数少ない機会をとらえてニコライの演奏を聴いていたことになる。バラバノーヴィチはチェーホフが聴いたのは1880年3月14日に行われた演奏会だったであろうと推定している。


ルビンシテイン兄弟とは直接の交流はなかったようだが、このような形で縁があったということだけでも、十分に興味深い事実だと思う。ロシアの音楽界に偉大な足跡を残したこの兄弟は、若き日のチェーホフを感化したことによって、文学や演劇にも間接的な影響を及ぼしたといえるのである。


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