「命をあげよう」

2011年7月 6日

日本語詞:岩谷時子 作詞:リチャード・モルトビーJr.、アラン・ブーブリル 作曲:クロード=ミシェル・シェーンベルク
公演開始前にスタジオ録音されたものが『ミス・サイゴン』日本公演ハイライト盤 TOCT6432(1992.03.25)に、本公演のライヴ録音が『ミス・サイゴン』帝劇(東京)公演完全全曲ライヴ盤 TOCT8008-09(1993.05.19)に収録されている。ほかにこのナンバー単独の録音が「LIFE〜本田美奈子.プレミアムベスト〜」UMCK-9115(2005.5.21)と「心を込めて…」COCQ-84139(2006.04.20)に収録されている。

先月11日にNHKのBSプレミアムでトニー賞に関連した特別番組が放送された。その中で本田美奈子さんが1991年6月にNHKの音楽番組に出演して「命をあげよう」を歌った際の映像が放映されたのだが、これがさすがに美奈子さんというべき素晴らしい歌唱だった。特に声の強弱のつけ方が絶妙で、それによってこのナンバーの持つドラマティックな性格がより効果的に引き立てられていた。もちろんそれは周到に計算され練り上げられたものなのだろうが、同時にそこには美奈子さんの天性の勘ともいうべきものが躍如しているのが感じられる。

この映像は『ミス・サイゴン』日本初演の一年前に収録されたもので、歌詞が実際の上演で使用されたのとは大きく異なっていた。番組に出演した今井清隆さんによるとおそらくオーディションではこの歌詞で歌ったのだろうとのことだった。訳詞を担当された岩谷時子さんが劇としてより効果的な日本語訳を求めて実際の上演まで推敲を重ねていた様子が垣間見られて実に興味深い。

もう一つ興味を誘われるのは、美奈子さんが随所にファルセットを織り交ぜて歌っていたことだった。作曲者のクロード=ミシェル・シェーンベルクさんは確かこのナンバーを地声で歌い通すことを要求していたと聞いている。オーディションの段階ではファルセットを交えて歌っていても、トレーニングを重ねれば本番までには地声で歌えるようになると見越しての美奈子さんの起用だったのか。ともかく様々な点で示唆に富む、貴重な映像だった。

同じく番組に出演した新妻聖子さんはご自身のブログでこの映像について次のように振り返っている。

NHKの過去の秘蔵映像もたっぷり見られるんですが、「ミス・サイゴン」日本初演前に本田美奈子.さんがテレビで歌われた「命をあげよう」は本当に貴重で素晴らしいです。

上演前だからか訳詞が今とは全然違って、「ここから日本のサイゴンの歴史が始まったんだ」と感動しました。本田さんの可憐さに、ストレートな歌詞の世界観に涙が出た…。

収録終わりました!|SEIKO NIIZUMA OFFICIAL BLOG

実際の舞台での美奈子さんの歌唱がどのようなものだったかは、ライヴ録音によって知ることができる。ここでは作曲者の要求通り、このナンバーを地声で歌い通しているのが確認できる。強弱の絶妙な按配に加え、自在なルバートがドラマティックな緊張感をさらに高めている。フレーズの切れ目の音を長く伸ばして歌うところと短く切り上げるところの対照によってメリハリをつけているのが目立つのは、阿蘇山麓の野外コンサートでの「つばさ」にも共通しており、これは美奈子さんのライヴ・パフォーマンスの特徴の一つなのかも知れない。最後の「命をあげるよ」の‘あ’の音が本来の高さよりやや低いところから出てそこからずり上げているのは、意図したものではなく音を外したのを修正しているようにも思えるのだが、そうしたところさえもが楽曲のドラマティックな表現として十分に成り立っている。

一部のみ公開されている舞台映像から察するに、このナンバーは幼い息子のタムに寄り添って床に座った状態で歌っていたようだ。このナンバーは劇中の最大の聴かせどころなのだから、素人考えではもっと声を出しやすい姿勢で歌わせる演出でもよかったのではないかと思うのだが、プロの歌手にとってその程度のことはさして障害にはならないのかも知れない。ともかく美奈子さんの発声が歌う姿勢に影響されている様子は全くない。


『ミス・サイゴン』のロングランを終えた後、美奈子さんはアルバム「JUNCTION」にこのナンバーを収録している(編曲は宮川彬良さん)。ここでの歌唱は劇的な緊張感よりも単独の楽曲としての完成度を優先させているようで、やや遅めのテンポでしっとりと聴かせている。このヴァージョンは劇中で歌われたものよりも半音高い調で歌われているらしいのだが、なぜそのようにしたのかはよくわからない。そしてそのことと関係あるのかどうか、一部をファルセットで歌っている。舞台上では守り通した作曲者の指定に敢えて逆らった理由もよくわからないが、美奈子さんとしてはファルセットに“逃げる”のではなく、自分のパレットに用意してある色彩の一つとして積極的に利用したいという意志の表れだったのではないかと想像する。このヴァージョンは現在手に入るCDとしては美奈子さんの入院中に発売されたベスト・アルバム「LIFE〜本田美奈子.プレミアムベスト〜」で聴くことができる。


同じく『ミス・サイゴン』の劇中のナンバーである「サン・アンド・ムーン」 の感想を記した際にも述べたが、このミュージカルはジャコモ・プッチーニのオペラ『蝶々夫人』を下敷きにしていると言われている。しかしこの二つの劇で大きく異なるのは、『蝶々夫人』のピンカートンは初めから蝶々さんに誠意がなかったのに対し、『ミス・サイゴン』ではクリスはキムを心から愛しており、アメリカに帰ってエレンと結婚した後もキムのことを絶えず気にかけていたという点である。その意味でキムは蝶々さんより幸せだったといえる。キムの悲劇の要因は、報われない愛にではなく、息子タムへの母親としての愛情にある。経済的に援助はするがタムをアメリカに引き取るわけにはいかないというクリスに、無理にでも引き取らざるを得ない状況を作り出そうとしてキムは自らの命を絶つのである。

それはあまりにも悲しい結末であり、キムの無謀な決心を“健気”ということもできるだろう。しかし、と私は考える。自分がもしタムの立場だったなら、たとえどんなことがあろうとも母親に生きていて欲しかっただろうと思う。アメリカで手にすることができるかも知れないどんなチャンスより、母親が生きて注いでくれる愛情の方が遥かに価値あるものではなかったろうか。森進一さんが最愛の母を亡くした時にどんなに悲しい思いをしたかと考える時、私はこの結末を“感動的”と呼ぶことにはためらいを覚える。ヴェトナムに取り残されたブイ・ドイたちにとってアメリカに渡って“アメリカン・ドリーム”を手にすることだけが幸せに至る道であるかのように思い描くのも、“先進国”の住人たちの驕りでしかないようにも思われる。

そんなわけで私は息子のアメリカ行きのために命を投げ出すキムの行為を“究極の母の愛”として称揚するような見方には与しない。しかしそれはともかくヴォイス・トレーナーの山口琇也さんは美奈子さんの第一印象を「ひたむきで献身的、愛情にあふれたキムそのもの」と語っていたそうで、確かに美奈子さんのそんな姿がこの役にはまっていたのは間違いないと思う。それがどんなに無謀で無益な行為だったにせよ、タムを思うキムの真情には一点の曇りもない。そんなキムとほとんど重なり合うかのような美奈子さんの可憐な姿が、この劇を成功に導いたのだろう。


美奈子さんによるこの歌の録音として最後に残されたのは、デビュー20周年を記念して制作することを予定していた新しいアルバムのための、仮の歌入れである。この音源は逝去後に制作されたアルバム「心を込めて…」に収録されている(編曲は井上鑑さん)。本来は公に発表することを想定していなかった音源ということもあるのだろう、淡々とした出だしだが、歌い進めるうちにおのずから興が乗ってきて次第に力のこもった歌唱になっていくのが感じ取れる。

クラシカル・クロスオーヴァーでの成功という経験を踏まえて制作されるミュージカル・ナンバーの新録音はどんなコンセプトで行われるはずだったのか。この仮の録音では舞台上でと同じく地声で通しているが、本番での歌唱ではパレットの中からファルセットを取り出す予定はなかったのか。伴奏はピアノを中心としたシンプルなものだが、これにもう少し装飾を加えるつもりはあったのかどうか。考え始めると興味は尽きないが、それを知ることは見果てぬ夢である。

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