「私たち一息つけるわ」

2012年3月28日


今日3月28日はセルゲイ・ラフマニノフの69回目の命日に当たる。しばらく前にちょっとした騒ぎになったようにこの3月は内閣府の定める自殺予防月間ということなので、既にもう月末で些か時機を逸してはいるが、それに絡めて一つ彼の作品を紹介したい。


ラフマニノフの歌曲に「私たち一息つけるわ」Op.26-3という作品がある。テクストは直接の親交があった劇作家、アントン・チェーホフの戯曲、『ワーニャ伯父さん』から採られている。いわゆるチェーホフの四大劇の二作目に当たるこの劇は、幕切れに長く—ほとんどお涙頂戴といわんばかりの—美しいセリフが置かれていることが一つの特徴となっている。人生に絶望し生きる意欲を失って自殺を企てる伯父ワーニャを何とか思いとどまらせようと、ソーニャは自身の失恋の痛手をこらえつつ切々と訴えかける。「仕方ないわ、生きていかなくちゃ」とはじまるそのセリフは“チェーホフ劇の中でも最も美しいセリフ”といわれ、愛好されてきた。チェーホフを師として慕ったマクシム・ゴーリキーがこの劇を見て「女のように泣いた」と告白したことはよく知られているが、私自身にとっても、高校生の時に初めてこの戯曲を読んで以来、このセリフはずっと心の支えであり続けた。

後にクラシック音楽に関心を持つようになり、ラフマニノフという作曲家の作品が自分に合っていそうだと気づきはじめた頃、この作曲家が“あの”セリフに曲をつけていたと知った時には、それこそ跳び上がるほど驚いたものだった。『ワーニャ伯父さん』は純粋な台詞劇で、節をつけて歌われることを想定して書かれたものではない。他の作曲家はどうかよく知らないが、ラフマニノフがそうした散文のテクストを歌曲にするというのは他にほとんど例のないことで、よほどこのセリフから強い印象を受けたのであろうことが推察される。ゴーリキーや私や、あるいは多くの演劇愛好家がこの作品から受けたあの感動を、この作曲家も共有していたのだと知った喜びには、いわく名状し難いものがある。この曲は演奏時間にして2分程度の小品ではあるが、帝政末期のロシアが生んだ二人の偉大な芸術家の交流の記念碑として、極めて重要な意義を持つ作品といっていいだろう。

なお因みに、ラフマニノフが散文のテクストに曲をつけたもう一つの例が作品番号のない「スタニスラフスキーへの手紙」という歌曲で、これもまた演劇と関わりの深い作品である。


私がラフマニノフに心酔している大きな理由の一つは、このように彼がチェーホフの薫陶を受け、その影響下に創作に取り組んだ芸術家だということにある。しかし残念ながらそうした認識は世間一般にはあまり共有されていないようで、この作品はその重要さにも関わらず、音楽ファンに広く知られるには至っていないように見受けられる。演奏される機会もそれほど多くはないのが実情のようだ。これはこの二人の芸術家がそれぞれの領域で占める位置を考えると些か異なことではある。

チェーホフといえば演劇史における最重要人物の一人と誰もが認める劇作家だし、ラフマニノフも作曲家としてはともかくピアニストとしてはクラシック音楽の歴史上最高の評価を受けてきた音楽家である。その二人のコラボレーションがあまり注目されていないというのはなかなか考えにくいことだ。もしかするとチェーホフ作品のようなストレートな台詞劇とクラシック音楽というのはファン層があまり重ならないのかも知れない。でなければこの作品が人目につかず埋もれるというのはあり得ないことだと思う。この二人のどちらの作品からも深い感銘を受けてきた—もしかしたら数少ないかも知れないうちの—一人としては、「ラフマニノフを理解したければチェーホフを読め」というのが常識となるくらい、この二人の交流が広く知られるようになって欲しいものだが…。


それでも原題の「Мы отдохнём」でYouTubeを検索したらそれなりの数がヒットしたので、両者の母国ロシアではさすがに幾許か知られた作品ではあるようだ。興味深いのは、元は女性の登場人物のセリフであるにも関わらず、バリトン歌手が歌っている例が目立つことだ。私が唯一所持している録音もロシアのバリトン歌手、セルゲイ・レイフェルクスさんによるものである。ラフマニノフが使っている部分には文法的に話し手の性に依存した言い回しが全くないので、あるいはそういうことも影響しているのかも知れない。

ただし残念ながら著作権に問題のなさそうなものが見つけられなかったので、ここに紹介するのはメッツォソプラノのヴィクトリヤ・グリナさんによる歌唱である。原曲はピアノ伴奏なのだがここではスタニスラフ・カリニンさんのオルガンによる伴奏で、重厚で恰幅のいいソーニャを聴かせている。このグリナさんという歌手についてはよく知らないが、公式チャンネルの他の動画から判断するに、チャイコフスキーやラフマニノフの歌曲に精力的に取り組んでいる方のようだ。


冒頭の自殺対策強化月間の話に戻るが、日本では年間の自殺者が3万人を超える状態がもう何年も続いている。これはほとんど戦争状態といってもいい事態で、例の評判の悪かった“GKB47”なるキャッチフレーズも、お役所的なおざなりの発想では十分に世の中に問題意識を共有してもらうことはできない、と担当のお役人さんなりに危機感を持って知恵を絞った結果だったのではないかと思う。私自身これといって何ができるわけでもないが、『ワーニャ伯父さん』という戯曲から多くのことを学んできた身としては、何とかしてソーニャの言葉が、それを必要とする人の心に届いて欲しいと願うばかりである。


最後に、拙い訳で恐縮だが、ソーニャのセリフのうちラフマニノフが使っている部分を以下に引用して、この稿を締めることにしたい。

私たち一息つけるんだわ。天使たちの声がして、空は一面にダイヤモンドを敷きつめたようになるの。この世のあらゆる悪も、私たちの苦しみも全て神様のお慈悲の中にうずまって、それが世界中を満たしていくの。そして私たちの暮らしも、まるで神様にやさしく撫でてもらっているような、静かで、なごやかで、心地いいものになるんだわ。わたし信じてるの、信じてるの…。

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