「世界に一つだけの花」
2008年1月31日
坂井泉水さんの追悼コーナーがあるということもあり、全部ではなかったけど断続的に見ていた昨年の紅白歌合戦、最後にいよいよお仕舞いという段階になって思いがけないサプライズがあった。出演者全員で「世界に一つだけの花」を合唱したのだ。実は槙原敬之さんが出演すると知った時からせっかくだからあの歌を歌ってくれたらいいのに、とは思っていたのだけど、こんな粋な計らいは予想してなくて思わずうれしくなってしまった。
この歌はSMAPの2002年のアルバム「SMAP 015/Drink! Smap!」の収録曲で、シングルカットされてヒットしたのはその翌年のことだが、私の最初に聴いた時の感想は「やけに理屈っぽい詞だな」というものだった。その後この歌が槙原さんの作であることを知って「なるほどそうだったか」と腑に落ちる思いがした。というのも彼の最初のヒット曲「どんなときも。」を聴いた時にも全く同じことを思ったからだ。この歌も普通歌の歌詞では使わないような複雑な構文を用いて書かれていて、「こういう歌もありなんだな」と新鮮な驚きを覚えたのが強く印象に残っている。11年の時が経っても彼の本質は少しも変わっていなかったのだ。
そんなわけで私にはこの「世界に一つだけの花」は“SMAPの歌”というよりも“マッキーの歌”という認識の方が強い。この歌の成功は何よりもソングライティングの素晴らしさに負っていると思うからだ。
21世紀に生まれたでき立てほやほやの作品ではあるが、この歌はすでに古典と言ってもいいほどに人々に愛され親しまれている。シングルカットされヒット曲となったのがちょうどイラク戦争が始まった年だったこともあり、内容についてはそのことを背景にした反戦歌と解釈されることが多い。実際この年の紅白歌合戦のトリでSMAPがこの歌を歌った時の木村拓哉さんの前振りのトークもそうした趣旨のものだった。しかし私には虚心にこの歌の歌詞を味わう限り、槙原さんはそうした国家レベルの軍事や外交のことではなく、むしろ私たち一人一人の生き方について問いかけたかったのではないかと思えてならない。「NO.1にならなくてもいい/もともと特別なOnly one」というフレーズは単なる狭義の武力衝突のみならず、現代の競争社会そのものに対して端的にアンチテーゼを突きつけているように見える。
この歌についてWikipediaで調べていて、槙原さんは謹慎中に僧侶から教えられた如来蔵思想の影響を受けてこの歌を作ったことを知った。如来蔵思想とはあらゆる存在に仏陀となる可能性が宿っているという考え方で、日本の仏教に大きな影響を与えてきた思想である。「仏になる種」というような実在を認めるのは全てを空と見做す仏教本来の思想からはやや異質な考え方だと評価されることもあるが、日本では広く受け容れられてきた。これは日本土着のアニミズムの影響もあるのではないかと言われている。
このことを知って私はなるほどと得心がいくとともに、宗教思想家のひろさちやさんの言葉を思い出した。
結局、日本人は、誰か偉い政治家が号令をかけて、何年何月何日、午前零時零分を期して、いっせいに競争をやめる—そういうふうになって欲しいと思っているのです。でもね、そんなこと、政治家がするわけがありません。…
だから、わたしたちのほうから、背伸びをやめないといけないのです。
ひろさちや著「仏教に学ぶ『かんばらない思想』」1999年、PHP研究所
この歌の素晴らしさは何よりも、無益な競争のために神経を擦り減らし感情を鈍麻させてしまう愚劣な生き方から足を洗うのに国家的指導者の号令など待たなくてもいいのだ、ということを教えてくれるところにある。あくまでも国際関係論の文脈でこの歌を反戦歌として称揚したがる知識人には、この歌がビートルズ的な「Love & Peace」よりもっと深いことを語っているのかも知れないということが見えていないのだ。
「それなのに僕ら人間は/どうしてこうも比べたがる?」というフレーズはひろさんの次の言葉にぴたりと符合する。
自分を他人と比較することを、仏教では、
—慢—
と言います。「慢」は煩悩です。自分を他人と比較すれば、必ずそこに競争心が生れます。優越感が生じ、劣等感が生じます。
なにも比較する必要はないのです。自分は自分でいいのです。
なぜなら、この自分という存在は、ほとけさまからいただいたものだからです。ほとけさまからいただいた自分だから、自分は自分でいいのです。
その自分を変えよう—よくしよう—と考えてはいけません。…ほとけさまを信頼して、ほとけさまが与えて下さった自分という存在を全面肯定すべきです。
ひろさちや著「『まんだら』のこころ」新潮文庫版、1998年、新潮社
「一人一人違う種を持つ/その花を咲かせることだけに/一生懸命になればいい」というメッセージはあるがままの自己へのおおらかな肯定を促している。この歌はこれからも、無益な競争の中で疎外され自己を見失った哀れな現代人に救いの光明を照らし続けるだろう。
この稿、早く書きたいと思いつつなかなか筆が進まなくて、仕上げるのに一月もかかりやや時期を逸した話題になってしまった。なお冒頭で少し言及した「どんなときも。」の方も真摯な自己省察が心を打つ素晴らしい名曲である。この時代に自己ヘの誠実さをテーマに歌った作品として尾崎豊のあの名曲「僕が僕であるために」と並ぶ双璧と言っていいだろう。哲学教師が主体という概念を考察の主題から捨て去り記号論やらグラマトロジーやらにうつつを抜かしていたあの時代に、この二人の音楽家が自己とは何か、何であるべきかを愚直に問い続けていたことを音楽ファンは銘記しておくべきである。