ピカソに殺された画家?—ダリが語るブグロー

2014年10月17日

先日のオルセー美術館展について書いた記事の中でダリのことに少しふれたが、ダリについては最近知った興味深いエピソードがもう一つあるので、ついでにそのことを書いておきたい。

ヴィーナスの誕生

しばらく前に書店に立ち寄った際に、平松洋著「名画 絶世の美女 ヌード」(中経の文庫、2012年に新人物往来社から刊行された単行本が今年6月に文庫化されたものらしい)という本が平積みされていたので買ってみたのだが、うれしいことに表紙がウィリアム・アドルフ・ブグローの「ヴィーナスの誕生」だった。というより、部分を切り取っているのですぐにはブグロー作品とは気づかなかったものの、パッと見た時に表紙がきれいだったのがこの本を手にとってみたそもそもの理由だった。

著者と編集部で選んだ裸婦画の名作に著者が簡単な解説を付け加えるという体裁の本だが、巻末の後書きを、著者の平松洋氏はサルバドール・ダリの次のような言葉の引用から書き起こしている(参考文献としてダリ著「異説・近代藝術論」が挙げられているのでおそらくここから採ったものと思われるが未確認)。

すべてを恐れるピカソは、ブグローが怖いばかりに醜なるものを作った。

平松氏によると、ダリはブグローを引き合いに出しつつ、モダニズムの批評家に迎合した画家たちをこのように批判していたのだという。ダリはシュールレアリスムの旗手として自身が美術の革新を先導する立場にありながら、現代の前衛絵画によって裸婦画が醜悪なものに転じていくことには我慢がならなかったらしい。

西洋では元々、神話や歴史を“主題”とすることを口実に、裸婦をその“モティーフ”として描いていたのだが、次第に裸婦そのものが絵画の主題になっていった。そして主題としての裸婦はやがて現実の女性像の再現であることをやめ、モダニズムの画家たちによって色や形や形式において解体され、再構成されることになった。平松氏の見立てでは、「ピカソは、ブグローを短刀で半殺しにしたのち、闘牛の短剣でとどめをさした」というダリの発言こそが、この“美的モティーフ”としての裸婦の殺害という事態を明快に物語っていることになる。


私には現代の“醜なる”裸婦画を批判していた一人がダリだったのも意外なら、その際に引き合いに出していたのがブグローだというのもうれしい驚きだった。私はブグローのことは、そうした美術史における位置付けについてなどほとんど知識のないままに、作品そのものに魅了されて好きになったのだが、その画家が“美しい”裸婦画の作者の代表格として名前を挙げられる存在だったとは、自分の審美眼もまんざら捨てたものではなかったようだ。

「ヴィーナス…」と同じくギリシャ神話に題材を採った「ビブリス」(ビュブリス)でも、「夜明け」や「夕暮れ」のような寓意画でも、官能的でありながらも高貴な品格を備えた女性美の究極を描き出すことに成功している。裸婦ばかりでなく、例えば母娘(と思われる二人)や幼い姉妹を描いても、この画家の描く女性像の優美さは際立っている。淑女の肖像画はもとより羊飼いの娘水汲みの少女のような庶民の面立ちからさえ溢れ出るノーブルな気品は、私はこの画家の伝記的事実についてなど多くを知らないけれども、作者の高潔な人格の表れでもあるのだろうと想像している。


「名画 絶世の美女 ヌード」の著者、平松氏もダリに共感するとのことで、表紙に起用したのもその表れなのだろう。本文でも「ヴィーナスの誕生」のみならずほかにも多くの作品が紹介されている(正確には数えていないがおそらく作品の掲載数は最も多い)。西洋絵画に描かれた美女を特集した解説書の類いは数多く出ているが、これほどブグローを大きく扱うというのはこれまでの類書にはなかったことではないだろうか。

MMM(メゾン・デ・ミュゼ・デュ・モンド)なるサイトに掲載されたオルセー美術館展の紹介記事でも、アカデミスム絵画を印象派との対比で“悪しき絵画”と見做すような風潮を戒めているが、ブグローなどアカデミスムの画家たちに再び光を当てようとする機運はそれなりに盛り上がってきてはいるようだ。この本の出版なども契機となって、この“ピカソに殺された画家”(という云い方が本当に正しいのか私には判断がつかないが。記事のタイトルにまで名前を出してしまったが私自身はピカソに対して特に含むところはない)の再評価がさらに進むことを願いたい。

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国立新美術館「オルセー美術館展」

2014年10月13日

先日、六本木の国立新美術館で開催されているオルセー美術館展を見に行ってきた。お目当ての一つは私のお気に入りの画家、ウィリアム・アドルフ・ブグローだが、今回の企画には若い頃の作品である「ダンテとウェルギリウス」(1850年、画像)が出展されている。ダンテの「神曲」に題材をとった作品だそうで、裸体の男性二人が戦っていて、一方が他方の喉元に喰いついているという構図である。ヨーロッパ絵画史の文脈ではそれなりに意義深い画題なのかも知れないが、何とも観る者の心をそそらないテーマではある。若き日のブグローがなぜこのような主題で絵を描くことになったのかよくわからないが、後に気品ある優美な女性像を数多くものすることになるこの画家にしてみれば、自分でも描いていて気乗りのしないテーマだったのではないだろうか。オルセーには代表作「ヴィーナスの誕生」をはじめブグロー作品がいくつも収蔵されているはずだが、数ある名画の中からどうしてこれを選んで日本に持ってきたか、選定に当たった責任者を小一時間問い詰めてみたい気にもさせられる。

例えばフランシスコ・デ・ゴヤの「我が子を喰らうサトゥルヌス」なら、あの官能的な「裸のマハ」を描いた同じ画家によるとは思えない凄惨な作品ではあっても、それでも観る者に深い感銘を与える、マハとは違った魅力が確かにそこにはある。しかしこの絵からは、ヴィーナスとは異なる方向性の魅力を感じ取ってみようと意識して鑑賞してみても、そのようなものを見出すのは困難だった。しかしまあこの画家の経歴の初期にはこうした作品もあったということを知れたのは、ファンとしては貴重な経験だったとはいえるかも知れない。


そんな次第でブグローのヴィーナスが見られないのは残念なのだが、その代わりといっては何だが、同じ新古典主義の画家でブグローにとっては先輩に当たるアレクサンドル・カバネルの「ヴィーナスの誕生」(1863年、画像)が展示されている。こちらはごく普通に観て楽しい作品で、特に波の上に寝そべるヴィーナスのポーズは女性らしい美しさを強調して秀逸である。ただ、画集などで観ていた時から感じていたのだが、空の色彩が単調で明るすぎ、そのせいで全体の印象がややぼやけたようになってしまっている気がする。実物を観ても、その印象は変わらなかった。

カバネルではもう一点、「ケラー伯爵夫人」(1873年、画像)という作品が展示されているが、こちらは女性の佇まいに気品があり、色彩も非常に洗練されていていい絵だと思った。いま買ってきた絵葉書やウェブにある画像をあらためて確認して、眼窩のくぼみが強調され過ぎてくまのようになっていることに驚いているのだが、実物を観た時にはそれほど不自然には感じなかった。

晩鐘

今回の展示で最も深い感銘を受けたのはジャン・フランソワ・ミレーの「晩鐘」(1857-59年)だった。バルビゾン派の代表的な作品としてあまりにも名高いこの絵だが、実物を観ると意外なほど小ぶりなのに驚いた。しかし小品とはいえ辺りを払うような威厳を備えていて、農民の敬虔な祈りとともに荘厳な鐘の音が聞こえてきそうな思いにとらわれる。日本画の川合玉堂もミレーから影響を受けていたというのも実にうなずける気がする。

実は最近、中野京子著「怖い絵 2」を読んでサルバドール・ダリがこの絵について、“亡き子を埋葬した後の祈りの情景”という奇抜な解釈を披瀝していたことを知ったのだが、これはさすがに無理があると思う。農民たちの素朴な祈りの世界からはあまりに遠く隔たったところに辿り着いてしまった近代人の過剰な自意識が生み出した“照れ”の表出とでもいうべきか。この作品に関しては、素直に見たままを受け取るのが正しい鑑賞態度ではないだろうか。

ミレーの作品はほかにもう一点、「横たわる裸婦」(1844-45年)が展示されていた。こちらは裸婦のポーズに工夫が見られるものの、上半身が薄暗く蔭に覆われた陰影の表現が効果的でなく、凡庸な絵という印象しか受けなかった。名画家といえども得手不得手というものがあることを窺わせる。


裸婦に関しては、今回展示されていた中ではジュール・ルフェーヴルの「真理」(1870年、画像)という作品が、奇を衒うことなく女性らしい美しさを素直に描出していて好感を抱いた。ただ、この女性が頭上に掲げ持っているのがどうしても電球にしか見えなかった。トーマス・エジソンによる電球の発明は1879年とされているのでこれは時代的に合わず、実際には鏡を描いているようなのだが、それにしても“真理”の寓意としては些か安っぽい図のような気がするがどうだろう。


今回の企画で最も前面にフィーチャーされていた画家はエドゥアルド・マネで、多くの作品が展示されていたのだが、私は特に、最後に展示されていた「ロシュフォールの逃亡」(1881年頃、画像)が気に入った。ナポレオン3世に反旗を翻し、パリ・コミューンにも関わってニューカレドニアに追放されたアンリ・ロシュフォールが小舟で島を脱出する様子を描いているのだそうだ。政治的な事件を背景に持った作品ではあるが、主人公の孤独や不安といった要素よりも、私は寧ろ洗練された色彩や、粗いタッチでさざ波を描いた技法の冴えに目を奪われた。作品に内在する“精神”といったものよりも外面が与える“印象”の方が観る者の心を強くとらえるところに、印象派を代表する名画家(印象派展には一度も出展したことのないこの画家をそう呼び得るとすればだが)の面目が躍如しているといえるのかも知れない。

ポスターにも採用されていた代表作の一つ、「笛を吹く少年」(1866年、画像)は快活な笛の音が聞こえてきそうな楽しい作品。普通にいい絵だとは思うのだが、この作品が当時の画壇で物議を醸したという、その美術史上の位置付けについては、私の知識ではよく理解できなかった。


マネのほかにも印象派の作品は多数展示されていたが、誰でも知っているような有名な作品は多くなく、「印象派の風景」と題された区画はやや地味な印象を受けた。その中では私はピエール=オーギュスト・ルノワールの「イギリス種のナシの木」(1873年頃、画像)という作品が、緑の濃淡が目に鮮やかでいい絵だと思った。観ているだけで初夏のさわやかな風が(いや、いつの季節を描いたものか正確には知らないのだが)頬を撫でていくのが感じられるような気がする。


会期は今月20日までで、場所を変えての展示というのもないようなので、もう残りわずかな日にちしかないが、印象派やその周辺のフランス絵画がお好きな方には絶好の企画なので、ぜひ足を運んでみることをお薦めしたい。


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