『尾崎豊のいた夏』など
2007年8月18日
先週の金曜日に放送された『尾崎豊のいた夏』、録画しておいたものを今日になって見た。1985年8月25日に大阪球場で行われたライヴを通じて彼の素顔を紹介するという内容だった。このうちいくつかの曲については全曲ライヴテイクによるベスト盤「MISSING BOY」に収録されていて音源としては聴いたことがあるのだけど、映像を見るのは全て初めてだった。彼の歌には常にある種の切迫した緊張感が漂っているのが特徴だが、リハーサルではおどけたような表情も見せていたのが印象的である。
私は生前は彼の歌を特に熱心に聴いていたわけではないが、彼の伝えようとしたメッセージは理屈抜きで感覚的に理解できる。私と同じくらいの世代ならそういう人は多いのではないだろうか。彼の歌を聴くという体験は、多感だった少年時代の記憶に否応もなく引き戻されることでもある。「ふりむいてもまぶしすぎる 俺たちの夏」(ハウンドドッグ「ラスト・シーン」)。彼の歌ではないがこんなフレーズが思い浮かぶ。
尾崎豊はあの時代に誰よりも強く自由への希求を歌った歌手だった。「Scrumbling Rock'n'Roll」の「自由になりたくないかい」という執拗に繰り返されるフレーズが耳に残る。彼のことは“十代の教祖”と呼ばれることが多く、もちろんそれはそれで彼のあり方をよくとらえてはいるが、それだけでは彼の音楽の深さを十分に言い当てることができていないような気がする。最近になって“資本主義世界のショスタコーヴィチ”とでも形容すれば彼をよく知らない人にもその存在意義が理解されるようになるのではないか、などと考えたりしている。
90年代は日本のポピュラー音楽の世界に何か大きな地殻変動のようなものが起きた時代だったということをよく考える。それが一体何だったのかを正確に言い当てるのは難しい問題で簡単に答えなど出せないが、一つ言えるのはあの時尾崎豊がいたが今はいない、ということだ。現在日本の音楽シーンに彼の後継者と目することができるアーティストが見当たらないのは寂しい限りだ。人は自由を希求する存在であることをやめてしまったとでもいうのだろうか…。
なお尾崎の歌に度々脳科学者のコメントが挿入される番組構成は私には煩わしく感じられた。彼の歌は識者の注釈がないと理解できないようなものではないはずなのだが。
ほかにこの夏の歌番組を見た感想を簡単に。
『思い出のメロディー』は例の『アイドル三昧』と重なったので切り換えながら少しだけ見た。ちょうどタイミングよく石川さゆりさんの「愛燦燦」を聴けたのは幸運だった。さゆりさんが歌うとこんな歌でも艶っぽく聴こえてしまう。
『夏うた2007』は愛と平和をテーマにして歌の特集。比較的若い世代のアーティストを中心にした構成で、それぞれに真摯に取り組んでいる様子が伝わってきて感銘を受けた。特に元ちとせさんの歌は壮絶だった。ただどの曲を聴いても歌としての魅力に十分に酔うことができなかったのはなぜだろう。歳のせいで感受性が枯渇してきたからだとは考えたくないのだが…。