チェーホフを読んだ夏の日の思い出

2009年8月26日

日頃チャイコフスキーラフマニノフなどロシアの音楽を愛好し、このサイトでも時折下手な感想を綴っている私だが、最初にロシア芸術の素晴らしさに魅了されたのは、実は音楽ではなくアントン・チェーホフの戯曲だった。あれは高校3年の夏休み、部活を引退し学校行事も一通り終えてしまい、後はもう受験勉強しかすることがないという状況で、しかし何だか馬鹿らしくて身を入れて取り組む気にもならない、そんな退屈な日々に何か読む本はないかと思って父の書斎の本棚を物色していて、ふと手に取ってみたのがチェーホフの『かもめ』と『ワーニャ伯父さん』が収録された古ぼけた文庫本だった。

薄い本だし会話体で書かれているので気楽に読めそうな気がして、そんな何気ないきっかけで読んでみることにしたのだが、この体験は実に、私の心にいつまでも残る深い感銘を与えることとなった。もちろん、当時の私にこれらの作品の歴史的意義などを十分に理解することができたはずもないのだが、そこに描かれた生き生きとした言葉たちは、私の心に決して褪せることのない鮮烈な印象を残したのだった。あれから曲折を経て今ではすっかり文学嫌いになってしまったが、あの時チェーホフの作品から受けた衝撃だけは、今も確かに私の心の奥底に息づいている。


英文学者の小田島雄志さんは、学生の時に『かもめ』を読んで一目惚れして以来ずっとチェーホフに惚れ続けている、と述べているのだが、その気持ちは私にもとてもよくわかる。ただ、私がチェーホフに心底惚れたのは、『かもめ』よりもむしろその後に読んだ『ワーニャ伯父さん』の方だった。当時の私にはコスチャが死ななければならない理由が今一つ理解できなくて(いや、実は今でもよくわかっていないのだが)、ソーニャの幕切れのあのセリフの方がより深く私の心に響いたのだ。だから私の場合は二目でチェーホフに惚れた、といった方が正確かも知れない。


その翌年の冬に入学願書に選択する第2外国語を記入する必要が生じた時、ロシア語にしようかという考えが一瞬頭を掠めた。しかし文学を専攻する気は全くなかったので、少しでも余計な負担をなくそうと思い、文字を新たに覚える必要のないフランス語を選んでしまった。

その後フランス的知性なるものにすっかり幻滅し、フランス語の知識など全て忘れてしまいたいさえと思うようになった今になってみれば、あの時心の声に素直に従っておけばよかった、という思いもないわけではない。しかしフランス語が多少なりともわかるというのは、人生で損になるということは決してないので、まあよしということにしている。あれから何年も経って、ラフマニノフの声楽作品に親しむうちに矢も盾もたまらなくなってロシア語を学び始めてしまったのは、どこか不思議な運命の巡り合わせである。


さて、実はチェーホフは大変な音楽好きで、ロシアの著名な音楽家たちとも深い結びつきがあったことが知られている。しかし、残念ながらチェーホフ作品の読解の手掛かりとして音楽について語られることや、逆にロシア音楽の鑑賞の際の手引きとしてチェーホフに言及されることは、あまり多くないのが実状である。

チェーホフ作品の文学的な価値について語るのはいささか私の手には余ることだが、音楽との関わりについてはいろいろと思うところがあり、予てからこのサイトで語ってみたいと思っていた。最近になってようやく気持ちの準備が整ってきたところでもあり、今後そのことについて少しずつ不定期に述べていくことにしたいと思う。この拙い試みがロシアの芸術へのより深い理解に少しでも貢献できることになればいいのだが。

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「あなたが選ぶドナウ川絶景30」

2009年8月18日

NHKのBShiで放送された「あなたが選ぶドナウ川絶景30」を見た。紹介されたどの絶景も素晴らしいものだったが、個人的には番組に出演した幸田浩子さんと西村由紀江さんのツーショットこそどんな絶景にもまして美しいと思った。番組の公式ページでは自分の気に入った絶景への投票を募集していたのだけど、そういう票は受け付けていないようなのが残念だった。

二人の共演で聴かせてくれたリストの「愛の夢」をはじめとする音楽も素晴らしく美しかったのはいうまでもない。ちょっと聞いたことのない作曲家の「ピエ・イエス」というのが中途半端に紹介されたのだけど、欲を言えばあれをもっとじっくりと聴かせて欲しかった。幸田さんのせっかくの素晴らしい歌声だったのに。まあともかく夏の夜に幸せな一時を過ごすことができた。

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「微笑みを見つけた」

2009年8月 9日

作詞:遠藤京子 作曲:鈴木キサブロー 編曲:井上日徳

今月3日に行方がわからなくなって以来その安否が案じられていた酒井法子さんだが、昨日の夜に警察に出頭し、5日ぶりに姿を現した。その間に彼女の置かれた立場は“悲劇の妻”から“容疑者”へと一変してしまったわけではあるが、最悪の事態も想定される状況だっただけに、ともかくも無事が確認されたことにほっと胸をなでおろした。

のりピー”といえば80年代後半を代表するトップ・アイドルの一人で、あの時代に青春を過ごした人で彼女の愛くるしい笑顔に魅了されなかった者はいないだろう。私も特に熱心なファンというわけではなかったけど、数多の女性アイドルが少年達の心をわしづかみにしたあの時代にあって、のりピーはその中でもとびきりかわいい人だったと認識している。

正直にいうと私は失踪が伝えられた時点で本人に嫌疑が降りかかる事態もある程度予期していたのだけど、彼女が“悲劇の妻”であれ“容疑者”であれともかく無事でいて欲しいと願わずにいられなかった。今後は犯した罪について法の裁きを受けなければならないし、それは彼女にとってとてもつらい道のりになるだろうけど、生きてさえいればまたやり直すこともできるはずだ。


大抵の報道では彼女の肩書きは“女優”となっていたが、のりピーは当然“歌手”でもある。去年のことだったか、NHKの『SONGS』で彼女が中山美穂 & WANDSの「世界中の誰よりきっと」を歌うのを聴いたけど、私には「ミポリンの曲をのりピーが歌っている」という話題性以外に刮目すべき点があるようには思われなかった。ヴォーカリストとして特に資質に恵まれた人というわけではないだろう。私には歌手としての酒井法子さんに格別の思い入れはない。

そんなのりピーの歌の中で、私が割りと気に入っているのが「微笑みを見つけた」という作品である。この曲は1990年8月21日にリリースされたようなのだが、リアルタイムでは全く記憶にない。おそらくそれほどヒットした作品ではないのだろう。

私がこの歌を最初に聴いたのは、ヴィヴィアン・ライさんという香港の歌手(以前このサイトで少しふれたことのあるヴィヴィアン・チョウさんとは別の歌手)による広東語でのカヴァーだった。中古CDショップでたまたま入手した香港のアイドル歌手のコンピレーション・アルバムに収録されていたものである。聴いていてとてもいい曲だな、と思ったのだけど、作詞者、作曲者のクレジットから日本の楽曲のカヴァーだということはわかったものの、元のタイトルが明記されていなかったので誰の何という曲なのかまではわからなかった。

それが後に例によって中古CDショップで手に入れたのりピーのシングル集にこれが収録されていて、この曲が酒井法子さんの「微笑みを見つけた」という作品だということがわかったのである。ヴィヴィアンの声もとてもかわいくてよかったのだけど、のりピーのオリジナルもやはりとてもいい雰囲気で、日本語詞がまた実に素敵だった。このアルバムにはシングルのジャケット写真が載っているのだけど、これがまたとびきりかわいい笑顔なのだ。そんなわけでこの曲はすっかり私のお気に入りになったのである。


彼女の行方がわからなくなって以来、私はずっとこの曲を聴きながら彼女の無事を祈っていた。薬物事件の被疑者であれ何であれ、ともかく無事に生きていてくれることが何よりである。いつかまたあのとびきりののりピー・スマイルを私たちに見せてくれる時がくることを願っている。自分で蒔いた種とはいえ今とてもつらい思いをしているに違いないのりピーに、何とかして「泣ける程温かい言葉」を伝えて上げられたらいいのだが…。

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「Lovin’ You」再び

2009年8月 6日

作詞・作曲:Minnie Riperton & Richard Rudolph 編曲:ボブ佐久間
アルバム「心を込めて…」(2006.04.20)所収。

先頃本田美奈子さんの歌う「Lovin’ You」を聴いた感想を記したのだが、その際音源の持ち合わせがなかったこともありオリジナルのミニー・リパートンによる歌唱は敢えて聴かずに書いた。もちろん、現在の発達したネット社会では聴こうと思えば聴けてしまうことは承知していたが、そのような方法で聴いた体験に依存して文章を書くことにはためらいがあったし、また自分のPCでの再生環境にあまり自信がないので、そうした条件で聴き比べをすることにも抵抗があった。しかし最近になって調べ物の序でにウェブ上に転がっていたものを聴いてみて、以前書いた時とかなり認識が変わってきた。そこでこの曲の感想をもう一度記してみることにする。


ミニーの歌唱を実際に聴いてみると、彼女はかなり濃密に表情をつけて歌っていた。「And every time that we」の後などはやや色っぽい吐息をもらしているし、「La la la...」のスキャットの部分は通常フラットなリズムで歌われるので譜面上はそうなっているのだろうが、ミニーは適宜符点付きのリズムに変えて歌ってみせたりもしている。この歌は実にいろいろな機会に耳にするので、あらためてオリジナルを聴いてみたからといって特に新たな発見はないだろうと思っていたので、このことは私には新鮮な驚きだった。どうやら私のこの歌に対する印象はミニー本人のものよりも、むしろ他の歌手によるカヴァーによって形作られるところが大きかったようだ。

そして重要なのは、それにも関わらず彼女の歌にはくどさや下品さを感じさせるところが少しもないということである。それは決して効果音として使用している鳥の鳴き声の効用によるばかりではない。明らかに彼女自身が“情感豊かな歌唱”と“くどい表現”との境界を正確に見極める審美眼を備えていたからこそそうなっているのだ。彼女はきっと、そうした感覚をおそらくは後付けの知恵としてではなく、天性の勘として身につけていたのだろう。さらにいえば、それは彼女の人柄や音楽的な感性の表れであり、また聴衆と真摯に向き合いつつも決して媚びることのない、彼女の音楽に取り組む姿勢の為せる業でもあるのだと思う。

正確に何と呼べばいいのかよくわからないのだが、いわゆる“フラジオレット・ヴォイス”の使いこなしの見事さも特筆すべきである。彼女は得意とするこの独特の発声をこれ見よがしに誇示するのではなく、歌の中でのアクセントとして効果的に使用することに成功している。これもまた実に稀有な資質だと思う。

ミニー・リパートンというと私は“「Lovin’ You」のオリジナル歌手”という程度の認識しかなかったのだが、実際に聴いてみてその素晴らしい力量に感服させられた。これほどの歌手がわずか31歳で亡くなったという運命の苛酷さにもあらためて慨嘆する思いである。もしこの人がもう少し長く生きることができていたら、「Lovin’ You」一曲にとどまらず数多くの名曲、名演を残してくれたに違いなく、そして彼女の名は専らこの曲とのみ結びつけられて記憶されるのではなく、20世紀後半を代表する歌手の一人として称えられたであろうことを思うと、そのあまりにも早い逝去が惜しまれてならない。


さて、そうした認識の下に美奈子さんの歌唱を振り返ってみると、美奈子さんは決して突飛なアイディアとしてこうした解釈を思いついたわけではなく、オリジナルのミニーの歌唱をかなり忠実に再現しようとしていたことがわかる。あの吐息混じりの妖艶な歌唱は美奈子さんなりのミニーへのオマージュでもあったわけだ。しかし悲しいかな、ミニーには備わっていた節度の感覚が、美奈子さんには決定的に欠如していた。美奈子さんの歌唱はミニーが決して踏み込もうとはしなかった一線を明らかに越えてしまっている。

スキャットの後にヴォカリーズで聴かせるソプラノ・ヴォイスも、ミニーのあの独特のフラジオレット・ヴォイスを意識したものであるようだ。しかしミニーのそれが曲の中に無理なく自然に納まっているのに対し、美奈子さんの場合は他の部分との相違が際立っていて、どこか場違いな印象を受けてしまう。

総じていうと、前回は「美奈子さん独自の解釈は失敗に終わった」というような論調になってしまったが、この歌唱はミニーの名人芸に近づこうとする意欲的な挑戦として評価することはできると思い直した。しかし、美奈子さんのファンとしてこういうことをいうのはいかがなものかという気もするのだけど、この挑戦は結果的にミニーの歌の世界は余人がおいそれと再現できるようなものではないということを証明するものとなってしまっているように思われる。技術的には表面をうまくなぞれているように見えるのに、そこに描かれた音楽世界は元のものとは全く別のものになっているというのは実に不思議なことで、つくづく音楽というのは奥が深いものだと感じさせられる。

なお序でにいうと、前回は今井美樹さんによるカヴァーについて“正当な解釈”という言い方をしたが、むしろ美樹さんがミニーの歌唱にとらわれずにこの曲を自分に引きつけて解釈し、それによって成功を収めたものととらえた方がいいようだ。それでいながら結果として描かれた世界観はミニーのものとよく調和しているというのは、美樹さんの非凡なセンスを証明するものだと思う。


前回の文章を書いた時には、もしこの二人があちらの世界で会うことがあればどんな会話を交わすのか全く想像できなかったのだが、今は何となくわかる気がする。美奈子さんはおそらく「あなたの歌の世界を再現しようと努力してみたけどうまくできませんでした」と報告し、それに対してミニーは「私の真似をしようとせずに自分の好きなように歌ってご覧なさい」とアドヴァイスするのではないだろうか。今私の脳裏にはそんな光景が思い浮かんでいる。

そしてもし現実に美奈子さんがこの曲をもう一度歌う機会があったら、必然的にそうしていただろうと思う。この録音が行われたのは90年代の半ば頃のはずで、美奈子さんとしては腕試しとしてミニーの名人芸に挑んでみた、というのがこの歌唱の意義だったのだろう。美奈子さんがもっと自分の技量に自信を得てからであれば、肩の力を抜いた自分なりの相応しい歌い方を見出していたことだろう。実際、前回にも述べたようにこの録音の中でも最後のスキャットの部分はミニーのオリジナルにはなかったもので、ここは実に全く申し分のない美しさなのである。

私としてはそうした美奈子さん独自の歌唱の中から自然に滲み出してくるそこはかとない色香をこそ玩味したかったところだが、これは今となっては叶わない夢である。あるいはあの世へ行ってからのお楽しみとでもいうべきか…。

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