少し時期を逸してしまったけど書いておきたかった話題を一つ。去年の10月14日にロサンジェルスで行われたN響のアメリカ公演の模様が年末にBS2で放送された。このコンサートの前半の演目がエレーヌ・グリモーさんによるブラームスのピアノ協奏曲第1番だった。指揮はもちろんアシュケナージさん。グリモーさんのピアノが聴けるということでサッカー天皇杯準決勝の浦和レッズ対鹿島アントラーズを断念してこちらを見ることにした。
グリモーさんは現代を代表する女流ピアニストの一人である。現役の名女流ピアニストというとマルタ・アルゲリッチさん、マリア・ジョアン・ピリスさんといった名前が思い浮かぶが、今やそれに次ぐ存在といっていいのではないだろうか。
グリモーさんというとまず何よりもその美貌によって知られている。私もラフマニノフの2番は"ジャケット買い"をしてしまった。美しい(容姿だけではなく人柄や生き方も)女性を応援することをモットーとする(?)当ブログでも一度はふれておきたかった芸術家である。
ただその演奏スタイルはフランス出身の美人ピアニストという肩書きから受ける印象とはかけはなれたもので、知的で構築的な骨太の演奏を聴かせるのが特徴である。得意なレパートリーはベートーヴェンにブラームスとどこか"おじさん"臭い。このギャップこそが彼女の最大の魅力といえるかも知れない。
実をいうとロシアの作曲家からクラシックに入っていった私にとって、ブラームスはこれまでやや縁遠かった作曲家である。一部の作品には親しんでいたもののピアノ協奏曲についてはよく知らなくて、そのうちグリモーさんの録音でも入手して聴き込んでみようかな、と思っていたところだった(共演のザンデルリングさんも好きな指揮者なので)。今回の放送はまさにこの曲だったので私にとってちょうどいい機会だったのだ。
曲自体をよく知らないので演奏についての詳しい解説は熱心なファンの方のレポートに譲ることにしたい。私の素朴な感想としては、とにかくピアノを弾くグリモーさんの姿が美しかったこと、そしてグリモーさんらしく曲に正面から取り組んだ雄渾な演奏だったということが印象に残っている。
グリモーさんのCDは何枚か持っているけど、最も好きなのはベートーヴェンの4番を収録したものだろうか。内省的で優美な曲調が特徴的で、一般的な人気は5番ほどではないもののそれに劣らず高く評価されているこの曲は彼女の芸風にはまさに打ってつけだろう。冒頭のピアノソロによる導入部から曲の内側に深く沈潜した味わい深い演奏を聴かせてくれる。ベートーヴェンの構築した音楽の骨格を描き出しながら、なおかつそこにほのかな色香が漂っているのが魅力である。ヘッドフォンで聴いていると彼女の息使いまで聴こえてくるのだが、この"吐息"に参ってしまっているファンも少なくないのではないかと推測している。フィルアップの後期ソナタ2曲の演奏も実にチャーミングである。
グリモーさんについて特筆すべきは、いわゆる"共感覚"の持ち主であり、音に色彩を見出すことができるということである。共感覚とは本来互いに独立しているはずの五感の間に関連が生じ、音を見たり色彩を味わうことができるという、少数の人に見られる特殊な現象である。ラフマニノフのCDのライナーノートによると彼女がこのことに最初に気づいたのは10歳の時で、バッハの「フーガの技法」を聴いて色彩が心に浮かんだそうだ。彼女によるとラフマニノフのピアノ協奏曲第2番は"あらゆる陰影を包含する黒"だという。こうした特殊な感覚は楽曲の解釈にもいかされているのだろう。
もう一つグリモーさんに関してふれておかなければならないのは野生生物の保護の必要性について熱心な啓発活動をしていることである。ニューヨーク郊外の自宅では狼を飼って暮らしている。上記のベートーヴェンのCDのブックレットには彼女が狼と戯れる姿が写真で紹介されているのだけど、これを見ると狼になりたいと思わずにはいられなくなる。
決して徒らに奇を衒ったようなことをするわけでもなく、しなやかな知性と野性から学んだ鋭敏な感性で音楽界に新鮮な風を送り込んでいる、類稀な芸術家である。