レスピーギ編曲版の「音の絵」
2009年1月27日
書きそびれていたが先週18日放送の『N響アワー』はラフマニノフの特集だった。目玉は何といっても演奏される機会の少ないレスピーギ編曲による「音の絵」である。
「音の絵」とはセルゲイ・ラフマニノフが作曲した二つのピアノ曲集(Op.33, Op.39)で、全部で17の練習曲である。原語のタイトルを直訳すると「練習曲–絵画」ということになるが日本ではこのように呼びならわされている。
このピアノ曲集のうち5曲がオットリーノ・レスピーギによって管弦楽曲に編曲されたのは、ラヴェルによる管弦楽編曲版の「展覧会の絵」の大成功に気をよくした指揮者のセルゲイ・クセヴィツキーが二匹目のどじょうを狙って「音の絵」に目をつけたことによるらしい。しかし実際にはこの編曲版は「展覧会の絵」ほどの人気を得られず、今日ではあまり演奏されることのない作品となっている。
しかしこの編曲作業はそれ自体としては高く評価されなかったものの、原曲の着想の源を明らかにしたという点で有意義だったといえる。というのも、編曲が行われるにあたってラフマニノフはレスピーギに各曲のタイトルを明かしたからである。
この「音の絵」という曲集には、アルノルト・ベックリンの絵に啓発された「死の島」と同様、各曲に具体的な着想の源があるとされるのだが、ラフマニノフはそれが何であるかを明かしていない。今日私たちがこれらの5曲を解釈する手がかりを知ることができているのはこのレスピーギの編曲のお蔭なのである。
今回の放送ではこれら5曲のうち3曲が抜粋で紹介された。私はこの編曲版について存在は知っていたものの実際に聴いたことはなかったのでとても興味深く見た。
「海とかもめ」(Op.39-2)は今回聴いた中では最も管弦楽編曲との相性がよかったように感じた。原曲よりもやや豊かな色彩感の中にかもめの群れ飛ぶ寂しげな海辺の光景が描かれていて、音色のヴァラエティが豊富な管弦楽の利点が生かされた編曲だと思った。ラフマニノフのオリジナルな管弦楽曲である「死の島」を彷彿とさせるようなところもあった。
「赤ずきんとおおかみ」(Op.39-6)は原曲の持つ不気味な雰囲気がこの管弦楽編曲では十分に再現されていないように感じた。元のピアノ曲には聴いていて本気で怖くなるようなほどの迫力を感じるのだけど、この管弦楽版ではどこかユーモラスな響きさえ漂っていた。これはピアノと管弦楽というそれぞれの編成が元々持っている性格の違いに起因するのか、ラフマニノフとレスピーギの個性の差なのか、指揮者のノセダさんの解釈によるのか、そのあたりは一度聴いただけではよくわからない。
「行進曲」(Op.39-9)はある意味で最もレスピーギらしさを感じた楽曲だった。レスピーギについてあまりよく知らない私にはどうしても「アッピア街道の松」の印象が強いので、こういう派手な終わり方をする曲を聴くとやはりレスピーギだな、と感じてしまう。ただしそうした認識が正しいレスピーギ理解といえるのかは自分でも心許ない。この曲の出だしの部分はピアノの独奏で聴くと重層的な響きを感じるのだが、管弦楽になって楽器の数が増えているにも関わらずこの部分がいささか平板に聞こえてしまうのは腑に落ちないところだった。こういうところがこの編曲版に今一つ人気が出なかった理由の一つなのかも知れないと思った。
今回5曲のうちの3曲を聴いた限りではやはり少し物足りないという印象を受けてしまった。「海とかもめ」一曲ならコンサートのオープニングなどで演奏するのに好適だと思うが、組曲全体をコンサートのメインに据えるというのはやはりなかなか難しいのではないかという気がする。ラヴェルの「展覧会の絵」とはさすがに比較にならないだろう。やはり柳の下に二匹目のどじょうはそうそういるものではないということなのか…。
指揮者のジャナンドレア・ノセダさんは汗を飛び散らせながら文字通りの熱演だった。イタリアの出身でロシアで学んだという経歴はレスピーギと重なるものがあり、そうしたこともあってこの作曲家には思い入れも深いのだろう。今後彼がこの編曲版を繰り返し取り上げることでレスピーギの編曲家としての評価が高まるということがあるのかどうか注目される。
なお、今回の放送では5曲のうち「市場の情景」(Op.33-7)と「葬送の行進」(Op.39-7)が省略され、この後にピアノ協奏曲第2番が全曲放送された。しかし協奏曲の方は聴く機会が多いので、私としてはこれを一部削ってでも「音の絵」の方を全曲放送して欲しかった。
さてそのピアノ協奏曲第2番だが、今回はソリストにレイフ・オヴェ・アンスネスさんを迎えての演奏である。アンスネスさんについては現代を代表するピアニストとしての盛名は存じていたものの、実際に演奏を聴くのはこれが初めてだった。
その演奏はというと、普通なら情感たっぷりに弾くところをあっさりと流してしまう一方で、思いがけないところでためを作って粘っこく弾いてみたりと私がこれまであまり聴いたことのないタイプの個性的な演奏だった。ただ、決して作為的にこねくり回しているような印象は受けなかったので、彼自身にとって自然な息使いで演奏した結果がこういう弾き回しだったのだと思う。
曲の世界に深く没入しながらも一方でクールに抑制を効かせているという印象で、ノセダさんの熱っぽい演奏とは作品に対する姿勢にやや温度差があるように感じた。しかしそれが緊密なアンサンブルにいささかの狂いも生じさせないところはさすがに両者とも一流の演奏家というべきか。
さすがにこの曲を聴いた後では「音の絵」を聴いて感じた物足りなさは完全に払拭された。しかし実際のコンサートでは協奏曲の後に「音の絵」が演奏されているので、この順序では戸惑いを感じた聴衆も少なくなかったのではないかと推察される。この管弦楽版の「音の絵」は今後どういう運命をたどっていくことになるのだろうか…。