浅田真央ちゃんが来シーズンのフリー・プログラムの曲目をラフマニノフの「鐘」にするという発表を聞いた時、最初に思ったのは、「また随分とマニアックな選曲をしたものだな。声楽付きで歌詞のある作品なのに、競技用のプログラムに使えるのだろうか? 声楽のないオーケストラのみの部分をつなぎ合わせてプログラムを作るなんて器用なことができるのだろうか?」ということだった。もちろん私は合唱交響曲「鐘」Op.35のことを思い浮かべていたのだが、よくよく調べてみると何のことはない、ピアノ独奏曲である前奏曲嬰ハ短調Op.3-2のことだった。
今あらためて各種報道をチェックしてみると、見出しでは単に“「鐘」”としているところも多いが、記事本文ではきちんと“前奏曲「鐘」”と説明しているものが多い。単に“ラフマニノフの「鐘」”としたのでは非常に紛らわしいということを知ってのことかはわからないが…。
実はWikipediaの「鐘」の項目の初版を投稿したのは私なのだが、冒頭で前奏曲のことにも言及しておいたのは実に賢明だった。でなければきっと混乱した人が多かっただろうな…。
下の動画は2008年5月のラフマニノフ国際ピアノコンクール12歳以下の部で第2位に入賞した高橋兼続さんによる前奏曲嬰ハ短調の演奏。
中日スポーツによると浅田真央ちゃんの来シーズンのプログラムはラフマニノフの楽曲らしい。来シーズンはオリンピック・シーズンになるわけだけど、私はキム・ヨナさんも大好きだし、真央ちゃんもタチアナ・タラソワコーチもソチまで見据えて取り組んでいるようなので、あまりバンクーバーでの結果にはこだわり過ぎずに見守りたいと思っていたのだけど、ラフマニノフのプログラムで挑むとなると俄然応援に力が入ってしまう。何だかちょっと困ったようなうれしいような、複雑な気分。
曲目はこれまで多くの選手によって何度も使用されてきたピアノ協奏曲第2番ではないらしい。ありそうでこれまで意外にあまりなかったピアノ協奏曲第3番とかヴォカリーズだったりするのだろうか。いや、ヴォカリーズは曲調が単調なので競技用のプログラムには難しいかな…。あるいは交響曲第2番だったりするとうれしいのだが、これは壮大な作品なので4分に切り詰めるのは難しそう。これまでミシェル・クワンさんやティモシー・ゲーブルさんがピアノ三重奏曲第2番を使ったことがあるのだけど、勝負の年にこういうマニアックな曲を選ぶとは考えにくい。近日中に発表されるそうだけど、どの曲を選ぶのか、とにかく楽しみ。
26日の発表によると、真央ちゃんの来シーズンのフリー・プログラムは前奏曲嬰ハ短調作品3の2とのこと。この曲はトリノ・オリンピックのシーズンにミシェル・クワンさんが使用する予定でいて、結局競技会で披露する機会のないまま終わってしまっていたもの。
重厚なピアノの和音の連打が印象的で「鐘」のニックネームでも親しまれている作品は真央ちゃんのイメージと少し違っているのでやや意外だった。仔鹿のようにしなやかで軽やかな動きを特徴とする真央ちゃんがこうした荘重な曲調をどのように表現してみせてくれるのか、とても楽しみだ。原曲のままピアノで演奏されたものを用いるのか、それともオーケストラなどにアレンジされたものを用いるのかといった点も注目される。
前回のエントリーを公開してから何気なく検索をかけてみて、アイリーン・ジョイスについては中村紘子さんの「ピアニストという蛮族がいる」というエッセイで紹介されていることを知った。これまで彼女の名を見掛けることがあまりにも少なかったので日本語の資料はほとんどないものと思っていたのだが、決してそういうわけではないようだ。この本は私は読んだことはないのだけど、文芸春秋読者賞を受賞したベスト・セラーであり、そうしたポピュラーな本で紹介されている割りには日本語での音楽談義で彼女に言及される機会が極めて少ないというのは、やはりどうも解せないところである。
で、中村さんの本に記されている内容なのだけど、ウェブ上に詳しいことを紹介して下さっている方がいておおよそのことを把握できたのだが、おそらく中村さんは史実にはあまり拘泥せずに、巷に流布している伝説を元に書かれたのではないかと思う。幼少時代の音楽に目覚めた際のエピソードなどはあまりに詳細で、しかもちょっとでき過ぎている。決定的におかしいのは14歳でロンドンに留学した、というところで、実際には彼女はまずライプツィヒ音楽院で学んでおり、ロンドンの王立音楽大学に移ったのはその後のことである。
ライプツィヒに留学したのは19歳の時なのだが、年齢に誤りがあるのはジョイスが自分の生年を偽っていたせいで、これは致し方ない。1950年には彼女の伝記も出版されてベスト・セラーとなったのだが、この伝記もかなりの虚構が交えられていたそうだ。この伝記を元にした映画も制作されており、中村さんが紹介しているのは主にこうしたものを通じて広まった俗説なのではないかと思う。
もちろん、中村さんの主たる目的は幅広い読者層にピアノ音楽への関心をかき立てることにあったのだろうから、これはこれで結構なことだと思う。また、中村さん自身この数奇な運命をたどったピアニストが知られざる存在となっていることを惜しむ気持ちも強かったのだろう。
ただ、ジョイスについては西オーストラリア大学が詳細な年表を発表しており、2001年には彼女の評伝も刊行されている。Wikipedia英語版の記述は主にこれらの資料に基づいており、今回それを日本語に翻訳して発表できたのは、この魅力的なピアニストへのより深い理解のために有益だったのではないかと思う。
もう何ヶ月も前から取り組んでいた英語版Wikipediaのアイリーン・ジョイスの項目の翻訳作業をやっと終えて、16日に日本語版に新規項目を投稿しておいた。英語版の項目はかなり熱心なファンの方が執筆しているらしく、出典も詳細につけられた充実した記事なのだけど、細々とした情報があまり整理されずに延々と書き連ねられているのでとても読みにくく、全体を整理しながら翻訳を進めていくのがなかなか大変な作業だった。
本当は私生活についての節などは実名入りでもっと細かいことが書かれていたのだけど、あまりいい趣味と思えなかったので大幅に簡略化してしまった。その他冗長と感じた部分もかなり端折って訳しておいた。それでもまあそれなりに人様の役に立つ項目にはなったかと自負している。このピアニストに関する日本語の資料としてこれほど詳しいものはかなり希少な存在なのではないかと思う。これはGFDLというライセンスの効力のなせる業でもあり、その影響力の大きさを再認識した次第である。
作業の完成を祝して彼女の録音を聴き直してみたが、その豊かな音楽性にあらためて感銘を受けた。グリーグやチャイコフスキーの作品と並んで愛奏したというラフマニノフのピアノ協奏曲第2番の録音は、そのテクニックの確かさを感じさせるとともにノーブルな気品が香り立ってくるような演奏である。両端楽章は雄渾な詩情と力強いダイナミズムに溢れる一方で、中間楽章では繊細な叙情を情感豊かに歌って聴かせており、それぞれの曲想に即した演奏を志向した様子が感じられる。アクセントの置き方にやや個性的なところが見られるのも興味深い。現在CDとして入手できるものは共演者が違うので映画『逢びき』で使用されたのとは別の音源のようだが、この高名な映画との関わりも含めて、この曲の演奏史について語る上で彼女の名は欠かすことのできないものだと思う。
英語版を読んでみてわかったことなのだけど、ジョイスについては日本であまり知られていないというばかりでなく、英語圏でも半ば忘れられた存在となっているようだ。貧しい境遇から一流の演奏家に育った経緯とか、類稀な美貌とか、映画音楽での活躍とか、話題性には事欠かない人であることを考えると、これはやや解せないところである。もっとこの(いろいろな意味で)美しいピアニストの業績が世に知られるようになり、その力量に相応しく評価されるようになって欲しいものである。
ところで、この翻訳作業の思わぬ副産物が、“cleavage”というチャーミングな英単語を覚えたことだった。これを“谷間”と訳すのは露骨かな、と思って穏当に“胸元”としておいたけど、却って無粋だったかも知れない。リチャード・ボニングさんという指揮者は演奏を聴いたことはないのだけど、正直な告白に親しみを感じてしまった。
辻井伸行さんが第13回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した。全盲のピアニストという話題性もあってこれまで度々メディアに取り上げられてきた辻井さんだが、これでもう肩書きから“全盲の”という修飾語はとれて、これからは一人のピアニストとして自身の芸術を極めていくことになるのだろう。
辻井さんのお父さんの話によると、辻井さんは高校生の時に「目が見えなくてもいいんだけど、一度だけ目が見えたら、母の顔を見たい」と語ったことがあるそうだ。この言葉を聞いて、母の姿をこの目で見ることのできる私は何と幸せなのだろう、と思わずにいられなかった。
フランスの作家、アンドレ・ジイドの『田園交響楽』という作品に、「目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいる」という言葉が出てくるのだそうだ。しかし、宗教思想家のひろさちやさんはこのジイドの言葉は不完全だと指摘する。
わたしは、目が見えない人は、目が見えないそのままで幸せだと思うのです。そうでなければおかしいのです。
…正しくは、こう言うべきです。
「目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいる。目の見えない人間は、見えないという幸福を知らずにいる」
ひろさちや『心の健康法—苦を「苦」にするな』
私には私の幸せがあり、辻井さんには辻井さんの幸せがあるということなのだろう。この若い才能の未来に幸多かれと祈りたい。
よく知られているように、本田美奈子さんは自筆のメッセージなどの末尾に「心を込めて…」と書き添えるのを習いとしていた。その言葉の通りに、歌においてもいつも精一杯の感情を込めて歌うよう努力していた。そのことはこのサイトでもこれまでに散々称賛してきたところだけど、今回はそんな美奈子さんの心のこもった歌の中から、私が「これはちょっとやり過ぎて失敗しているのではないか」と考えているものを扱ってみようと思う。
「Lovin’ You」はその名も「心を込めて…」というアルバムに収録されている。このアルバムは発病とその後の急逝のために実現できなかったデビュー20周年記念アルバムに代えて、関係者の尽力により制作された一年遅れの記念アルバムである。ここには残された未発表音源などが収録されているのだが、その中にNHKの朝の情報番組『おはよう5』のBGMとして流すために録音された、4曲の洋楽のヒット曲のカヴァーがある。「Lovin’ You」はそのうちの一曲で、元はアメリカの女性歌手、ミニー・リパートンの楽曲である。
私は最初にこのアルバムの収録曲を確認した時に、この曲は美奈子さんの高音の美しさが生かされた素晴らしい歌唱になっているだろうな、と大いに楽しみにしていた。ところが実際に聴いてみると、「これはちょっと違うんじゃないか」という違和感を覚えずにいられなかった。美奈子さんはアルバム・タイトルの通りに精一杯の感情を込めて歌っているのだが、この吐息混じりの妖艶な歌唱はこの曲本来の世界観からは懸け離れているように思われた。
私が思い描いていたこの歌のイメージは、朝のさわやかな目覚めの中で愛する人を思い浮かべながら歌う歌、というものだった。しかしこの美奈子さんの歌唱を聴いていると、夜の繁華街で色っぽいお姉さんに耳許で何やらささやかれているような妖しい気分になってくる。これは何事も徹底してやらなければ気が済まないという美奈子さんの特質が悪い方に出てしまった歌唱なのではないかと思う。「La la la... Do do do...」というスキャットの後にヴォカリーズで歌う部分などは実に素晴らしい美しさなのだけど、これもあまりに迫力があり過ぎてちょっと場にそぐわない気がする。
ミニー・リパートンのオリジナルの歌唱と聴き比べてみたいところなのだけど、あいにく音源の持ち合わせがないので今井美樹さんによるカヴァーと聴き比べてみる。美樹さんは洋楽のカヴァーを収めた1988年のアルバム「fiesta」でこの「Lovin’ You」を歌っている。
美樹さんの歌唱は実に肩の力の抜けた洒脱な味わいで、聴いていると高原のさわやかな空気に包まれているようなすがすがしい気分に浸ることができる。私はやはりこれがこの歌の正当な解釈だと思う。これと比べると美奈子さんの情感たっぷりの歌はどうしても下品に聴こえてしまう。
もちろん、人によって好みは様々なので、これを“斬新な解釈”と評価することも可能だろう。ただ、私はこの解釈は“失敗”だと思う。何事にも精一杯の心を込めずにはいられない美奈子さんには、こうした洒脱な感覚を必要とする楽曲を歌いこなすのは却って非常に難しかったのかも知れない。
その意味で、一見したところ美奈子さんの美しい高音が生きそうに思えるこの選曲は、実はむしろ致命的なミスマッチだったのだとも考えられそうだ。適切な比喩かどうかよくわからないが、宇野功芳氏がフルトヴェンクラーのモーツァルト演奏を「情念によって音楽が曇って」いると評しているのだが、それと少し似ているような気もしないではない。
ただし歌詞部分を歌い終えた後の後奏では美奈子さんのヴォカリーズと金管の音色が絡み合って実にいい雰囲気の響きになっている。この部分は「ら・ら・ば・い〜優しく抱かせて」や「満月の夜に迎えに来て」(オリジナル・ヴァージョン)の間奏などと同様、文句なく美しいと思う。
私は何でもかんでも絶賛するという評論は信用がおけないと考えているので、今回は敢えてこういう忌憚のない意見を述べてみた。美奈子さんも笑って許してくれるといいのだけど、怒っているかな…。まあしかし、何事も徹底してやらなければ気が済まず、そのために時にはこういう“失敗”をしでかしてしまうというところも含めて、私はこの人のことが大好きなのだということは強調しておきたい。
この歌のオリジナルの歌唱者であるミニー・リパートンは美奈子さんよりもさらに若く31歳で亡くなっている。今もしこの二人があちらの世界で出会っているとしたら、この歌の解釈についてどんなことを語り合っているのだろう。
先頃亡くなった三木たかしさんの作品の中から、いわゆるヒット曲ではないけれど私のとても好きな作品を一つ紹介してみたい。「嘘つき女のブルース」は1992年7月25日にシングル「花挽歌/嘘つき女のブルース」としてリリースされた、香西かおりさんの楽曲である。
どきついタイトルがついているが、内容は別に結婚詐欺師の哀感のようなものを歌っているわけではなく、愛する人の前でほんの少し自分を取り繕ってしまわずにいられないという、おそらくどんな女性の中にもひそんでいるであろう切ない感情を歌った作品である。その意味ではもう少し穏当な、例えば「泪色の嘘」といったタイトルにでもした方が歌の内容と調和していたのではないかという気がする。
私にはこの歌詞のシチュエーションからはどうしても『欲望という名の電車』のヒロイン、ブランチ・デュボワが思い浮かんでしまう。尤もブランチがミッチについた嘘は「小さな嘘」とは言い難いものではあるのだが…。作詞の市川睦月というのは著名な演出家の故久世光彦のペンネームなのだが、この詞を作るに当たって久世さんの脳裏にはどんなドラマが思い浮かんでいたのだろうか。
母の再婚から女性不信に陥ったハムレットにいわせれば、女とは神様から授かった顔を化粧によって別物に作り変える生き物、ということになり、嘘をつくのはある意味女性の本質なのだとも言えそうである。あるいは久世さんの意図も、そんな女性という存在のありのままの真実を描くことにあったのかも知れない。
もちろん、久世さんがこの歌のヒロインに注ぐ視線はハムレットのように辛辣ではなく、小さな泪色の嘘をつかずにはいられない女性の姿を愛惜を以て描いている。三木たかしさんによるメロディーはそんなヒロインの心情を代弁するように切なく哀しく流れていくのだが、三木さんの非凡なのは、こうした情調を長調でやや軽快なテンポのメロディーによって実現しているところである。
私はいつも思うのだけど、長調の明るいメロディーなのに聴いていて泣きそうなほど悲しくなることがあるというのはつくづく音楽というものの不思議なところである。TBSの追悼番組で平尾昌晃さんが三木さんの作る旋律の特徴として、悲しい歌でも暗くならない、ということを挙げていたが、この歌などもその好例だと思う。
そして香西かおりさんがまたこの歌のヒロインを実に可憐に演じてみせてくれている。香西さんというと、世間一般の認識だと「流恋草」や「無言坂」のような悲壮感を漂わせた作品の印象が強いのだろうけど、本当は切ない女心を幾分軽やかな調子でさらりと歌って聴かせるのがとてもうまい人なのだ。この曲はそうした彼女の特徴がよく表れた作品の一つだと思う。香西さん自身の選曲によるベスト・アルバム「浮雲」にも収録されているので、香西さんもお気に入りのレパートリーなのだろう。
またこの曲にはヴァイオリンとサックスのソロがフィーチャーされていて、それが実に絶妙な情趣を添えている。特にサックスをフィーチャーした間奏部分はこの曲の大きな聴き所ともなっている。私が持っているこの「浮雲」と「花挽歌そして恋紅葉」というアルバムには演奏者のクレジットが記載されていないのが残念なのだけど、このことも特筆しておきたい。
三木さんは日本のポピュラー音楽界の中でもとりわけ繊細な叙情を湛えたメロディーを作る作曲家で、稀有な才能に恵まれた人だったと思う。この作品などを聴いていると、あらためて惜しい人を喪ったとの感を深くする。もうこのような作品が新たに生まれることはないのだと思うとたまらなく寂しいが、こうして残された作品がこれからも歌い継がれ聴き継がれていくことを心から祈りたい。
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