辻井伸行さん ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールで優勝

2009年6月 9日

辻井伸行さんが第13回ヴァン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した。全盲のピアニストという話題性もあってこれまで度々メディアに取り上げられてきた辻井さんだが、これでもう肩書きから“全盲の”という修飾語はとれて、これからは一人のピアニストとして自身の芸術を極めていくことになるのだろう。

辻井さんのお父さんの話によると、辻井さんは高校生の時に「目が見えなくてもいいんだけど、一度だけ目が見えたら、母の顔を見たい」と語ったことがあるそうだ。この言葉を聞いて、母の姿をこの目で見ることのできる私は何と幸せなのだろう、と思わずにいられなかった。


フランスの作家、アンドレ・ジイドの『田園交響楽』という作品に、「目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいる」という言葉が出てくるのだそうだ。しかし、宗教思想家のひろさちやさんはこのジイドの言葉は不完全だと指摘する。

わたしは、目が見えない人は、目が見えないそのままで幸せだと思うのです。そうでなければおかしいのです。

…正しくは、こう言うべきです。

「目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいる。目の見えない人間は、見えないという幸福を知らずにいる」

ひろさちや『心の健康法—苦を「苦」にするな』

私には私の幸せがあり、辻井さんには辻井さんの幸せがあるということなのだろう。この若い才能の未来に幸多かれと祈りたい。

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ピアニスト魂のすばらしさ

国際的なバレエや音楽などさまざまなコンクールで、 日本人が入賞するとやっぱり嬉しくなりますね。 国際ピアノコンクールで優勝した辻井伸行さん。 ほんと笑顔がすてきですよ。 ピアノへの情熱もすばらしいな〜と。

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こんにちわ、NMLのYasuです(。・ω・)ノ゛ コンチャ♪ 先週と同じようなネ

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こんにちわ、NMLのYasuです。 いまだ興奮冷めやらない辻井氏の話題ですが、真

コメント

sergeiさん。

「目の見える人間は、見えるという幸福を知らずにいる。」という言葉は、特に説明を要しないほど意味は分かりやすいですが、「目の見えない人間は、見えないという幸福を知らずにいる」という言葉は、そのままでは真意は不明です。

というのも、目の見えない人間は、目が見えないそのままの状態の“一体どこに幸福を見出し得るのか?”という疑問が真っ先に生じてくるからです。果たしてその答えはどこにあるのでしょうか?これは、何も盲目の場合に限らず、聴覚障害など他の身体的障害や、知的障害などが先天的に生じた場合にも生ずる疑問です。

さらには、自然災害や事故、戦争、犯罪、病気等によって、後天的に心身の障害を負った場合や家族や財産を失ってしまった場合など、およそいかなる種類の不幸であっても、それが自分の身に降りかかった場合は必ず生ずる疑問であるといえます。

要するに、“人間は不幸な状態の只中にあるとき、一体どこに幸福を見出しうるのか?”という疑問です。果たして万人が納得しうる答えやいかに?

-> ミューズさん

こんばんは。そんなにびっくりされたということにこちらの方がびっくりしてしまいます(苦笑)。目が見えることは幸せで、見えないことは不幸せなのでしょうか。目の見えない人たちというのはみな不幸でかわいそうな存在なのでしょうか? 私はそれは非常にとらわれた物の見方だと思います。

「見えることは幸せで見えないことは不幸せ」といったようなものごとを分け隔てする考え方のことを“分別”といいます。そして仏教が教えるのはそうした分別を捨て去った智慧であり、それを“無分別智”と呼びます。目の見える人にとって見えることに幸せがあるのなら、見えない人にとって見えないことに幸せがある。そう考えるのがとらわれのない自由な物の見方ではないでしょうか。

私はひろさちやさんの著作を何冊も読んでいますのでこうした考え方はごく自然に理解できるのですが、このようなスペースでそれを丁寧に説明するのにはいささか無理があります。よろしければ直接ひろさんの著作をご覧になってみて下さい。

sergeiさん。

>「見えることは幸せで見えないことは不幸せ」といったようなものごとを分け隔てする考え方のことを“分別”といいます。そして仏教が教えるのはそうした分別を捨て去った智慧であり,それを“無分別智”と呼びます。

確かに、例えば、2人の人間が全く同じ境遇にいたとして、一人は“自分は幸福である”と感じ、もう一人は“自分は不幸である”と感じるというようなケースは当然ありうることです。そういう意味で、幸・不幸の区別は客観的事情や他者の主観的判断によって左右されるものではなく、あくまでも、本人自身の主観的価値判断によって決定されるべきことであろうと思います。そういう意味において、“分別”なる考え方が妥当ではないということは理解できました。

ただ、本人自身が、自分が盲目であることを不幸であると感じている場合、いかにすれば、“目が見えないそのままの状態”が幸福そのものだと感じ取ることができるのでしょうか?

あまり深入りしてもきりがないので、このへんにしておきますが。

-> ミューズさん

自分が置かれている境遇を不幸と感じるのは視覚障害者に限らずどんなケースでもあり得ることです。「もう少し背が高かったらよかったのに」とか、「もっと頭がよく生まれてきたかった」とか、「もっと美人だったら」とか、「家が金持ちだったら」とか…。目が見える人でも生まれてすぐに母が亡くなったので母の顔を知らないという人だっているでしょう。

しかし確実にいえるのは、人は誰も今自分が置かれているその状況を生きることしかできない、ということです。幸せというのはきっと、そのことを受け容れて今を精一杯生きるということの中にしかないのではないでしょうか…。

おそらく、この人は盲目という障害を持った引き換えに、ピアノの才能をもらった…
と感じているんではないでしょうか?
で、その才能に幸せを感じているのなら、
極端に言えば、「盲目=幸せ」というのも成り立つんじゃないかと。
それを受け入れ、努力したからこそ、今回の優勝という結果も付いてきたと思うので、
少なくとも「盲目=不幸」とは感じていないでしょうね。
もし感じてたら、ピアニストにもなっていないんじゃないかと思います。
 
まあ、唯一心残りと思っているだろう事が、
『母親の顔を知らない…』というのが、やっぱり悲しい事実なんでしょうけど…。

-> ボランチさん

話を聞いているとどうも目が見えないことをつらいとは全く感じていないみたいですね。そういう前向きな姿勢で音楽に取り組んできたからこそその演奏が多くの人の心をとらえるのでしょう。こうして他の人たちと全く同じ条件で審査されるコンクールで優勝したということは、私たちも全盲の青年がピアノを弾いているというものめずらしさに関心を抱くのではなく、彼が一人の芸術家として何を表現しようとしているのかに耳を澄ませなければならないでしょうね。

それにしても、せめてお母さんの顔くらいは見せて上げたいですね…。

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