「逝きし世の面影」

2011年7月23日

サイトの趣旨とは異なる話題だが、今回は最近読んだ本についての紹介記事を書いてみたい。一応音楽サイトのつもりで運営しているのだがたまにはこういうのもいいだろう。

最近読んだというのは渡辺京二さんの「逝きし世の面影」という著作である。各方面で話題になった本なのでご存知の方も多いと思うが、幕末から明治初期にかけて訪日した欧米人の見聞記を通じて徳川期の日本社会の実像に迫ろうとする意欲作で、1998年に葦書房から出版され1999年度の和辻哲郎文化賞を受賞した名著である。その後版元で品切れになり入手困難な状態が続いていたのだが、2005年に平凡社ライブラリーの一巻として復刊され、以来幅広い読者層に支持されてロングセラーとなり今に至っている。

私も予てから読みたいと念願していたのだが、なにぶん大部な書物なもので(普通の文庫本よりやや大きめのサイズで600ページを越す)、その分厚さに逡巡してしまっていた。しかしこのほど奮起して読み始めてみると、平易な語り口でありながら非常に興味深い内容で、あまり苦労することもなく読了してしまった。序でなので自分自身の記憶のためを兼ねて、関心のある方に向けて読書案内を記しておくことにする。私が読んだのは2005年の平凡社版で、以下引用のページ数表記もこの版に基づく。


依拠した資料はいずれも既知のものなので、本書は新発見の事実を報告するような性格のものではない。また紹介されている数多くの事例も、文化人類学だとか民衆の生活史といった分野にある程度関心のある人ならそう驚くべき程のことではないだろう。しかし豊富な事例紹介の中に貫徹された著者独自の文明論的な視座が、本書を唯一無二の価値あるものにしている。

本書の企図は、著者の次のような認識に根ざしている。

日本近代が経験したドラマをどのように叙述するにせよ、それがひとつの文明の扼殺と葬送の上にしか始まらなかったドラマだということは銘記されるべきである。扼殺と葬送が必然であり、進歩でさえあったことを、万人とともに認めてもいい。だが、いったい何が滅びたのか、いや滅ぼされたのかということを不問に付しておいては、ドラマの意味はもとより、その実質さえも問うことができない。

第一章「ある文明の幻影」p11

そのために訪日した欧米人による見聞記を利用するわけだが、彼らの多くは“妖精の国”とか“地上の楽園”といった言葉を用いて当時の日本社会のありようを称賛している。こうした証言を額面通りに受け取ってよいのかということについては、若干の検討が必要になる。冒頭の第一章はほぼそのことに費やされる。

しかし、幕末・明治初期の欧米人の日本見聞記を、在りし日の日本の復元の材料として用いようとするとき、私たちはただちに予備的な検討を強いられる。つまり日本の知識人には、この種の欧米人の見聞記を美化された幻影として斥けたいという、強い衝動に動かされてきた歴史があって、こういう日本人自身の中から生ずる否認の是非を吟味することなしには、私たちは一歩も先に進めないのが実状といってよい。

第一章「ある文明の幻影」p20

こう述べて著者はエドワード・サイードのオリエンタリズム論を引き合いに出しつつ、欧米人から見た日本という視点を用いることの是非について検討する。著者は懐疑や批判めいたことも述べているが、サイードのオリエンタリズム論の意義そのものは否定していない。しかし、そうした理論的枠組みを知的ファッションとして消費する日本の知識人の風潮には手厳しい批判を加えている。

サイード流のオリエンタリズムのコンセプトは、ご多分に洩れず最新の知的ファッションとして日本の知識層に受容され、開国期から明治期までの欧米人の日本イメージを否定し無化するのに好都合の視点として愛用されつつある。…

しかし、サイードのオリエンタリズム概念が、一個の理論的範疇として見るとき、安易にそのまま日本のケースに適用することを許さない重大な問題点を含んでいることに、彼らは気づいていないかもしくは気づかないふりをする。…

…少なくともサイードの概念を援用するかぎり、論者は十九世紀日本に関する言説のほとんどを拒否しなければならない。…ところが今日の日本の論客は、彼らの日本讃美をオリエンタリズム的幻影として否定する一方、彼らの日本批判については鬼の首を取ったように引用し、まったく無批判に受容しているのだ。要するに彼らは、日本がポジティヴに評価されることに拒否感を抱き、一方日本に対するネガティヴな評価には共感する心的機制を植えこまれているのであって、好意的なものであれ悪意的なものであれ、西欧的アイデンティティに立脚するオリエント観を一切拒否するサイードのラディカリズムとは本質的に無縁なのである。

第一章「ある文明の幻影」pp23-25

さて、こうした検討を踏まえた上で、様々な欧米人観察者の証言から当時の日本社会のありようを探っていくのである。

当時の日本人は概ね満ち足りた暮らしを送っていて、彼らの幸福感は表情に表れていた。人々は陽気で人なつこく、洗練された礼節は下層階級にまで行き渡っていた。彼らの生活は簡素だが衣食住に不足はなく、趣味のよい日用品に彩られていた。それは十分に豊かといい得るものだった。もちろん貧しい人々もいたが、悲惨さを伴う貧困は存在しなかった(と彼らの目には見えた)。それを支えていたのは高い農業技術だった。


このように当時の日本社会への称賛を並べ立てることによって、著者は古き良き日本へのノスタルジーを喚起したかったのではない。著者の目的は現代を相対化するための一つの参照枠を提示することにあった。その意味で第六章「労働と身体」と第七章「自由と身分」の二つの章は本書の中核をなしているといっていいだろう。

いや、著者は冒頭の第一章で社会の現実とは政治的経済的な諸相のことだと見なすような観点こそ西洋近代の知性の産物にほかならないと主張しているので、そのように述べるのは著者の意図に反するかも知れない。しかし現実に今の私たちがそのような観点に立ってしまっている以上、本書が単にノスタルジックな感傷をかき立てることを意図したものではないということを示す上で、この二つの章が特に重要な役割を担っているのは間違いない。そこで以下にこれらの章からやや詳細に引用しつつその内容を説明してみたい。

徳川期の民衆は、自分の労働を自分で管理していた。彼らは、現代の多くの労働者には手の届かないような自由を手にしていたのである。

近代工業の確立とともに軍隊的な労働規律として結晶するような、厳密に計測化された時間とひきかえの賃労働は、徳川期の日本にあってはいまだ知られざる観念だった。ひとは働かねばならぬときは自主的に働き、油を売りたいときはこれまた自主的に油を売ったのである。

第六章「労働と身体」p238

集団での重労働には唄を伴うのが常だった。それは実質的に作業をしている時間よりも唄をうたっている時間の方が長いと思われる程だった。こうした徳川期の民衆の自律的な労働は近代的な観点からするとあまりに非効率なものだが、それは労働という行為の意味が近代以前と以降とでは違っているからなのだ。

…地搗きや材木の巻き揚げや重量物の運搬といった集団労働において、動作の長い合間に唄がうたわれるのは、むろん作業のリズムを作り出す意味もあろうが、より本質的には、何のよろこびもない労役に転化しかねないものを、集団的な嬉戯を含みうる労働として労働する者の側に確保するためであった。つまり、唄とともに在る、近代的観念からすれば非能率極まりないこの労働の形態は、労働を賃金とひきかえに計量化された時間単位の労役たらしめることを拒み、それを精神的肉体的な生命の自己活動たらしめるために習慣化されたのだった。…

…このような非能率的な集団労働を、使用する側の商人なり領主なりは、もっと効率的な形態に「改善」したいとは思わなかったのだろうか。仮にそう思ったとしてもそれは不可能だった。なぜなら、それはひとつの文明がうちたてた慣行であって、彼らとてそれを無視したり侵犯したりすることは許されなかったからである。

第六章「労働と身体」pp240-241

こうした徳川期民衆の“自由”とは、もちろん近代社会の市民的自由を指しているのではない。彼らの自由を支えていたのは、地域共同体や職能団体など様々な共同団体の自治だったのである。

幕藩権力は年貢の徴収や、一揆の禁令や、キリシタンの禁圧といったいわば国政レベルの領域では、集権的な権力として強権を振るったのであるが、その代償といわんばかりに、民衆の日常生活の領域には、やむをえず発するそして実効の乏しい倹約令などを例外として、可能なかぎり立ち入ることを避けたのである。それは裏返せば民衆の共同団体に自治の領域が存在したということで、その自治は一種の慣習法的権利として、幕藩権力といえどもみだりに侵害することは許されぬ性質を保有していた。

第七章「自由と身分」p269

徳川期は刑罰の苛酷さも含めて、建前どおりにとれば、甚だ不自由な時代であった印象を受けかねない。だが、建前と現実の間には甚だしい乖離があり、建前の不自由さが実際の運用によって大いに緩和されていたことは、近年大方の論者の承認するところとなっている。…

しかし、いちじるしく弾力的な法運用と権限の下級共同体への移譲によって支えられていた徳川期の民衆の自由は…明治のピューリタン的国家権力によってやがて撃滅される運命にあった。ヨーロッパでは近代市民的自由は、近代以前の各種の共同団体の保持する自由を胚種として成長し確立したのに対して、日本の前近代的共同団体の伝統的な自治権は明治の革命によって断絶し、その結果、わが国の近代市民的自由は異邦的観念として、生活の中でなく知識人の頭脳の中で培養された。その意味でも、江戸期の民衆の自由の基盤となった前近代的共同団体の自治権は、再検討と再評価を求められていると言ってよかろう。

第七章「自由と身分」p273

この後もさらに性風俗、女性、子供、環境、信仰といったテーマについての論考が進められていく。

性の倫理は非常に緩やかで、日本人には裸体を恥とする習慣がなかった。真夏には褌一つで働くのが当たり前だったし、女性も庭先で行水を使い、ところ構わず子供に乳を与えた。売春は後ろ暗いものとは見なされておらず、年季の明けた娼婦が社会復帰して出身階級の家に、あるいはもっと高貴な家柄に嫁入りすることもめずらしくなかった。

当時の日本社会で女性の立場がどのようなものであったかについては観察者によって証言がまちまちで、見方によって様々に解釈することもできるため、一概に断定するのは難しいようだ。ただ、一般的に下層階級では女性は夫とともに働くのが普通で、それなりの社会的責任を担っていたとはいえるようだ。それにくらべると上流階級の女性は格式に縛られて不自由な面が多かったらしい。ただし日本では身分の高い人ほど自由がないということは女性に限らずいわれていたのである。

当時の日本は“子どもの楽園”だったということで観察者の証言は一致している。日本人の子ども好きはは欧米人の目には溺愛といえる域に達していた。子どもは自分たちだけの独立した世界を築いていた一方で、大人たちの生活の様々な面に参加することを認められてもいた。春画や春本、種々の性的玩具からも隔離されていなかったのである。

日本人は人とそれを取り巻く環境との間に明確な境界を設けることを知らなかった。日本人の草花好きは世界最高レベルの園芸技術に結実していた。江戸は世界最大の都市だったが、田園と人々の住居とが境界なく入り組んで所在したという点でも世界に類を見ないユニークな都市だった。人と他の生物の間にも明確な境界はなく、牛馬や鶏は家族のような存在だった。馬は調教されておらず、牡馬を去勢する技術もなかった。

日本人は一般に宗教心の薄い人々と見なされた。神との霊的な交わりを通して個人の生活や社会の営みを精神的な高みに導くものとする当時のヨーロッパの標準的な宗教観からすれば、物見遊山を兼ねた巡礼や娯楽と一体化した祭礼が敬虔な宗教感情の発露と見なされなかったのは無理もないことだった。しかし日本人の信仰心の真髄は欧米人から迷信や娯楽に過ぎないものとして真の宗教の埒外に放り出されたもののうちにあったのであり、欧米人観察者の中にもそうした日本の庶民の素朴な信仰に真の宗教心を見出していた人たちがいた。


こうした様々な角度からの考察により窺い知れる当時の日本社会のありようは、概ね最終章の次の言葉に要約されるといっていいだろう。

幕末に異邦人たちが目撃した徳川後期文明は、ひとつの完成の域に達した文明だった。それはその成員の親和と幸福感、あたえられた生を無欲に楽しむ気楽さと諦念、自然環境と日月の運行を年中行事として生活化する仕組みにおいて、異邦人を讃嘆へと誘わずにはいない文明であった。

第十四章「心の垣根」p568

本書を通読すれば、圧政と貧困のうちに呻吟する徳川期の民衆といったようなステレオタイプなイメージは一掃されることだろう。本書が詳らかにする近代以前の日本の姿は私にとってそれほど意外なものではなかったが、やはりこれだけ多くの資料に裏付けられた論述がもたらす説得力には圧倒されずにいられなかった。


著者がこのように近代以前の日本社会の姿を描き出そうとしたそもそもの動機には、近代がいまや終焉を迎えつつあるという認識がある。あとがきによると著者は既に1980年頃にはそうした認識に達していたようだ。いや、それは著者のみならず人類社会の行く末を案じる多くの人に共通した思いだったろう。

しかしそうした時代状況にあって知識人の振る舞いは著者の期待を全く裏切るものだった。

…近代という人類史の画期が終焉を迎えつつあることは、当時誰の目にもあきらかであった。八〇年代の日本はポストモダンの言説に席巻されていたが、私の耳には、それはポストと銘打ちながら、近代というプロセスがすでに完了したことの意味を解さないウルトラ近代的言説にしか聞こえなかった。近代という人類史的プロセスが歩み尽されたというのは、日本近代というプロセスの意味を客観化する条件が整ったということなのに、ウルトラ近代的価値観からする日本近代解釈はかえって横行の度を加えたのである。

あとがきpp581-582

これは私にも思い当たる感慨である。

本書に明記されてはいないが、近代の終焉という著者の認識は、おそらく石牟礼道子さんとの交流を通じて得られた水俣病についての知見によっても裏付けられているのだろう。温暖化への対策を喫緊の課題として抱えながら、その手段を原子力発電に依存するのがあまりにも危険であることが明らかになった今、そうした認識はより多くの人に共有され得るものと思われる。かつて日本の村落共同体の自治を支えていた“ゆい”の精神の再評価は、東北の震災の復興に向けても重要な意義を持つ。そうした人類史的課題への問題関心を共有する幅広い階層の方々に、自信を持って本書をお薦めする。

本書の内容に関心はあるがこれほど大部の本に時間や労力をかけられないという向きには、まず第六章と第七章だけでも目を通してみることをお薦めしたい。この二つの章を読んだ後で、さらに冒頭の第一章を併せ読めば著者の主張の概略はほぼつかめるはずである。


本書を通読して批判したり反駁したりしたい点は特に見当たらなかった。ただ、瑣末な論点ではあるもののやや注意が必要と思われる事柄に二点ほど気づいたので、最後にそれを指摘してこの稿を締めることにしたい。

まず、第一章25ページにエドワード・サイードのことを「イスラム知識人」と述べている箇所があるのだが、この形容は適切でない。彼はイスラム教徒が多数を占めるパレスティナの出身で、その主張がイスラム社会に対して親和的なのは確かだが、彼自身は代々のキリスト教徒なのである。全体の論旨に特に影響はないが、正確を期するならこの表現は避けた方がよかった。

次に、第十三章で日本人の信仰のあり方について説明する下りで、明治になって日本を訪れた欧米人が富士山に登っていて老女に出会ったという例が二件紹介されている。しかし近世には富士山は女人禁制が布かれていて、それが全面的に解除されたのは明治5年の太政官布告を受けてのことだった。実際には結界を多少侵犯しても大目に見られることもあったり、60年に一度の庚申の年に特別に女性の立ち入りが認められたりして、必ずしも厳格に守られていたわけではなかったようだが、ともかく徳川期に女性が富士山に登るというのはあまり一般的ではなかった。従って富士山に巡礼する老女の姿から徳川期日本の信仰のあり方を窺い知ろうとするのは無理があり、これはむしろ明治以降の時期に特有の現象と考えた方がいいのである。しかしいずれにしても、当時の富士登山がスポーツやハイキングではなく巡礼だったというのは確かである。

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