ヴァン・クライバーンさん逝去

2013年3月 1日

先月27日にアメリカのピアニスト、ヴァン・クライバーンさんが亡くなった。78歳だった。クライバーンは1958年に開催された第1回のチャイコフスキー・コンクールで優勝したピアニストで、冷戦期のアメリカとソ連の文化交流に大きく貢献し、クラシックの演奏家の枠を越えて“アメリカン・ヒーロー”にもなった人である。



上の動画はそのチャイコフスキー・コンクールでの優勝から50周年を記念して2008年に制作された映像である。当時はまさに東西冷戦のただ中にあり、人々は第三次世界大戦がいつ起こるのかと戦々恐々としていた。そしてそうなれば当然、それは本格的な核戦争になるに違いなかった。

そんな状況でテキサスからやってきた青年がモスクワの聴衆を熱狂させた、その事実が当時の人たちにどれほど大きな希望を与えたかは想像に難くない。映像に紹介されている風刺画(5分25秒くらい)にある「WE NEED MORE MUSIC, AND LESS H-BOMBS!」という言葉からも、そんな当時の世情を窺い知ることができる。


ラフマニノフ作品の普及に貢献した人でもあり、特にピアノ協奏曲第3番が現在のように人気曲になったのは、クライバーンがチャイコフスキー・コンクールのファイナルで演奏したことが一つのきっかけだったらしい(もちろんそれ以前からヴラディーミル・ホロヴィッツが愛奏していたことも決して忘れてはならないが)。コンクールから帰国する際に、アレクサンドル・ネフスキー大修道院の構内にあるチャイコフスキーの墓から土を持ち帰り、ニュー・ヨークのラフマニノフの墓前に供えたのは有名な話である。

コンクールの審査員を務めたスヴャトスラフ・リヒテルがクライパーンに満点の25点を与え、他の参加者全てに0点をつけたというのもよく知られているが、そのリヒテルの演奏をクライバーンは帰国後に絶賛し、それが西側でもリヒテルの評判が高まる一因になった。キリル・コンドラシンが西側で知られるようになったのも、クライバーンの凱旋コンサート・ツアーに帯同したのがきっかけだったのではないかと思う。



こちらは1987年にゴルバチョフ書記長が訪米した際にホワイトハウスで演奏を披露した時の映像である。1978年以来事実上の引退状態にあり、公の場での演奏はこれが9年ぶりだった。クライバーンの伴奏に合わせて聴衆が「モスクワ郊外の夕べ」を合唱するシーンもある。


今これを書きながらラフマニノフのピアノソナタ第2番の演奏をあらためて聴いてみている(1960年モスクワでのライヴ録音で、1913年の初版を元に1931年の改訂版を一部採り入れて弾いているようだ)。ロシア的なロマンティシズムをたっぷりと湛えたスケール感豊かな演奏で、19世紀的なヴィルトゥオーソの気風を残しつつ、そこに若々しく清新な息吹が萌しているのも感じられる。当時のロシア人たちから熱烈に愛されたというのもよくわかる気がする。

巨匠として円熟を迎える前に引退してしまった人なので、不世出の大ピアニストであるかのように語るのは、おそらく正しくない。しかし世に名演奏家は多しといえども、クラシック音楽の枠を越えて熱狂を巻き起こし、国際政治のパワー・ゲームが作り出した分厚い壁に音楽の力で風穴を空けるという偉業を成し遂げた人など、そうそういるものではない。その意味でやはり、20世紀のクラシック音楽の歴史を回顧する上で欠かすことのできない人であるのは間違いない。


2011年の第14回チャイコフスキー・コンクールではお元気な姿を見せ、表彰式で登壇して挨拶もしていた。しかしそれからほどなくして癌を患っていることが公表され、そう遠くない時期にこの日がくるのも予期されていたことではあった。

その2011年のコンクールでの挨拶の締めの言葉が素晴らしく素敵だったので、当時感想を記したエントリーでも紹介したが、もう一度ここで引用しておくことにしたい。

私は音楽とは神の息吹だと信じています。

ヴァン・クライバーン
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